心性の関を作ってくれた人に感謝
■ 印刷版
 

文/海外の大法弟子

 【明慧日本2016年9月26日】最近、「正しきは彼、過ちは私」[1]という師父の詩について、私はこれまでの認識を新たにし、自分に関を作ってくれた同修に心から感謝しなければならないことに気づきました。

 同修とトラブルになった時、特に自分の心を刺激された時はほとんどの場合、内に向けて自分を探さなければならないと多少分かっているので、一部の人心と執着心を取り除くことはできました。しかし、やはり心のどこかでは少なからずその同修に対して恨みが生じ、どうしてもうじうじと気にしてしまいます。そして、時間が経つと、相手の心性が悪いとか、しっかり修めていないなどといった偏見を持つようになり、他の同修と自分に関を作った同修のことを話している時も、自然とマイナスの評価、マイナスの思考になってしまいます。

 この半年の間に、大きな心性の関に遭いました。それは同修に罵られることです。相手の表情はとても恐ろしく、放った言葉も私の心を刺激しました。相手を鏡と見なして内に向けて自分自身を探したところ、闘争心や嫉妬心、復讐心、口を修めない、度量が狭いなど、様々な執着心が見つかりました。しかしながら、やはり相手が悪いと思わずにはいられませんでした。「人を罵っていいのか? 恐ろしい表情をしていいのか?」。そして、「正しきは彼、過ちは私」[1]という師父の詩の意味も理解できず、人を罵ったりする相手の方が悪く、私は何も言わず、口答えしないのに、何がいけないというのか? などと、よく葛藤していました。

 また一方で、師父はこれまでどんな状況下でも、相手が間違っていて、君が正しいなどと説かれたことは一度もなく、「正しきは彼、過ちは私」[1]としか説かれていません。したがって、これはやはり私自身の問題であり、自分の観念がまだ正せていないので、師父の法を理解することができなかったのです。

 そして、ある日、ふと理解することができました。そうなのです、これは、表面上は相手が間違っているように見えますが、実は相手が私に心性の関を作ってくれたのであり、心性を高める機会を与えてくれたので、やはり相手は正しいのです。以前、同修とのトラブルに直面した時、よく他人のことを議論したがり、表面上の是非ばかりにこだわっていました。同修が自分に心性の関を作った時や、きつい言葉で傷つけられた時は、心の底から反感を抱き、相手の素質が悪い、常人にさえ及ばないなどと思っていました。表面上、気にしないふりをしていましたが、心の中では結構こだわっていたのです。

 つまりは、自分自身を修めるのが嫌で、法理でトラブルに対処したくなかったのです。もし、法理で自分を律することができれば、「相手がこのような態度をとっているのは、きっと私に過ちがあるからだ」と直ちに気づくはずです。いくら相手が悪口を言って人を侮辱して正しくないにしても、それでも、確かに自分の度量を広げ、心性を高める機会を作ってくれたことに違いありません。もし、このようなトラブルがなければ、奥深く隠れている執着心に気づくこともないでしょう。これからは、トラブルに遭った時、このように考えることができれば、それこそ真に法理に基づいて悟り、修煉していると言えるのです。

 また、以前同修とトラブルになった時、私は内に向けて自分を探す基点が間違っていることにも気づきました。心の中ではいつでも自分が正しい、ただ相手が間違っていると思い、我慢して自分を修めていただけなのです。「正しきは彼、過ちは私」という法理をはっきり認識できず、怨みやマイナスの思考をなかなか取り除くことができませんでした。

 師父は「修行は梯を登るが如し」[2]と説かれました。一段ずつ梯子を上っていくことができてこそ、ゴールにたどり着くことができます。修煉の中における一つ一つの関やトラブルがその梯子の一段一段ではないでしょうか? トラブルや関のほとんどは常人や家族、親戚、友達、そして、同修が作ってくれたのではありませんか? 自分に梯子の一段一段を積んでくれた常人や同修に感謝すべきではないでしょうか?

 常人はかつて助けてくれた人に感謝しますが、それはあくまでも利益に対して、あるいは気持ちの表れによるものでしかありませんが、それでも、これを思い出す度に常人は感激し、感謝の念でいっぱいになります。我々修煉者は、心性の関を作ってくれ、天に通じる梯子段を積み重ねてくれて、また、偉大な神に成就するよう手助けしてくれている同修には、なおさらのこと、心から感謝すべきではないでしょうか? この観念を正さなければ、心性の向上に大きな障害をもたらすことでしょう。

 どのようにトラブルに対処するかについて、師父は「心の中で相手に対して本当に感謝しなければなりません」[3]と、すでに説かれています。しかしながら、私の度量はそれほど広くなく、心の中から感謝することはできず、かえって相手を怨んだり、咎めたりしたのです。修煉の過程とは心の度量を絶えず広めていくことで、そこまで修めるには無条件で内に向けて自分を探し、絶えず修めて人心を取り除き、そして、ようやくやり遂げることができるのです。

 以上、これはわずかですが私の認識したことです。

 注:
 [1]李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是誰が非」
 [2]李洪志師父の詩:『洪吟』「迷」
 [3]李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/6/22/330365.html)
 
関連文章