トラブルの中で精進する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年9月10日】2010年のある日、私はとある年配の大法弟子の家で真相資料を作っていました。あのころはまだ何も分からず、その同修に多大な迷惑をかけ傷つけてしまいました。彼女は私を責めなかったので、私も身勝手に人の家を荒らし、その上、自分は何も悪くないと意地を張り、何でも自分の一存で決めようとしていました。例えば、彼女の家にあってはいけないと思ったものを勝手に捨てたり、人の物を勝手に場所を変えたりなどしたので、その同修は物を探すとき、なかなか見つからなくてとても怒っていましたし、私に対する意見も大きかったです。

 今回はお互いのトラブルを解消しようとその同修の家に行き、彼女の家の物に勝手に触らないと何度も自分に言い聞かせました。しかしながら、その同修はまだ私を恨んでおり、ずっと私の不足について文句がいっぱいでした。なぜ彼女にこれほど多くの不満や文句があるのかさっぱりわからず、どうすればいいのか分かりませんでした。彼女も法を実証する一員なので、資料を作るときはできるだけ彼女にも仕事を与え、生活方面でも色々と手伝いましたが、それでも、私に対する恨みは全く減りませんでした。

 今までの彼女の家での自分の言動を思い返して、自分の不足の部分に気づきました。ある日、プリンターが壊れてしまい、自分では直せないので、この方面に詳しい同修の所までプリンターを持って行こうとしました。その時、この同修は自分も行こうと言い出しましたが、私は「この重いプリンターを抱えていかなきゃいけないのに、あなたまで来たら、余計面倒なことになりますから、ここに残ってください」と断りました。今思えば、あの時の態度がどれだけ彼女を傷つけたことでしょう。そして、とても利己的で面倒をかけられたくないと考え、その年配の同修も大法を実証することに力を尽くしたい大法の一員であるということに全く気付かずに、きっぱりと断ってしまったのです。このようなことをした私を恨まないはずがあるでしょうか。自分の過ちに気づいた私は「私が間違っていました。傷つけてしまってすみません。これからかならず改めます」と心の中でその同修に伝えました。

 けれども、これだけでは私と同修の間の誤解を解くことはできなかったので、引き続き内に向けて自分を探さなくてはなりませんでした。ある日、同修のAさんに「その年配の同修はまた『私のパソコンなのに、あの人にあちこちをいじられて、もうすでに彼女の物だよ』と文句を言っていたよ」と言われました。それから、「あなたはよく彼女の悪口ばかり言いますが、私から見れば、彼女は何でもかんでもあなたの事を真っ先に考えています」とその年配の同修にこのように伝えたこともAさんは言いましたが、同時にその同修が傷ついたような顔をしていたということを教えてくれました。

 この時、ふと師父の説法を思い出しました。「修煉する人、自らの過ちを探し、各種の人心取り去ること多し、大なる関小なる関、落とさんと想ふべからず、正しきは彼、過ちは私、何を争ふものか」[1]と、師父の詩を暗唱しながら、そのパソコンの事を考えていると、自分も少しばかり悔しい思いをしました。けれども、自分ですらこのような些細なことで悔しい思いをしているのに、自分の家の中を他人に勝手にいじられているその同修はもっと悔しいはずだと、ようやく自らの過ちに気づきました。そして、すぐに「私が間違っていました。今まであなたは水入らずで私と接してくれて、私は少しばかり調子に乗ってしまいました」とその年配の同修に謝りました。確かに自分は法輪功の大家族の一員ではありますが、物品の所有に関してはきちんと区別しなければなりません。この点に気づき、すぐに心が明るくなり、ずっと圧しかかっていた黒い物質が瞬時に消え去りました。自尊心を捨て、面子をすて、勇気をもって「あなたを傷つけてすみません。私があまりにも身勝手すぎて、あなたの事を全く考えていませんでした。これからはきちんと直します」と改めて同修に謝り、それからは、お互いの関係が良くなりました。

 しかしながら、やはりまだ少し何かが突っかかっている気がしますので、まだ、自分を探さなければなりません。そして、ある日、その年配の同修は、私が資料配りに行かせないと他の同修に文句を言っていたということを偶然知りました。ここは大きな資料拠点なので、安全の保障が第一です。これにも関わらず、彼女は他人の事を全く顧みずにいつも勝手にどこかへ出かけていきますので、確かに資料配りに行かせたくはありませんでした。しかし、実のところ、資料拠点を理由に、自分に危険が及ぶという恐怖心を隠していたのです。彼女が資料配りに出かけるといつも「危険ではないか」「何かトラブルにならないか」と心配し、彼女が無事に帰ってきたのを確かめてからやっと安心できます。そして、いつしか彼女に対して怨恨心が生じ、80過ぎたのに毎日出かけてはほぼ同じ人たちに会い、皆すでに彼女の事を知っているので、何が起きてもおかしくはないと怖くなりました。

 今思えば、これは師父を信じ、大法を信じていないことの表れなのです。師父は「もしこの事があなたと絶対に関係なく、あなたに取り除くべき心を持っていなければ、この事があなたの周囲に発生することはめったにありません。もしあなたがこの心を持っていなければ、トラブルを引き起こすことはありません。あなたの修煉に責任を負わなければなりません」[2]と説かれました。そして、私は「自分に危害を及ぼすことを恐れていた私が間違っていました。衆生を救うことは大法弟子一人一人の責任なのです」とその年配の同修に謝りました。これを聞いた彼女は頬笑み、私たちの隔たりが徹底的に解体したのです。

 師父はこのように説かれました。「多々なる人間(じんかん)の乱れ事、重々なる恩怨を経歴す、心悪しく業大にして望み無し、大法尽く淵源を解く」[3]

 注:
 [1]李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是誰が非」
 [2]李洪志師父の著作:『ヨーロッパ法会での説法』
 [3]李洪志師父の詩:『洪吟二』「大劫を解く」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/8/24/333438.html)
 
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