再び誓約について論じる
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 【明慧日本2016年8月14日】数千年の中国伝統文化の中で、誓いを立てる、誓約を果たすことは相当重要な部分を占めていました。昔の人は誓約に対して畏敬と敬虔な気持ちを抱いていました。誓いを立てる際、樹の枝を手に取り、誓約を述べ終えてから、その枝を折るのです。もし誓約に違反した場合、その枝と同じような結果になっても構わないという意味です。あるいは跪いて、天に向かって、もし誓約に違反したら、雷に打たれても、どんな天罰を受けても構わないということなのです。

 師父は大法弟子の誓約と誓約を果たさない場合の結果について何度も言及されました。大法弟子の誓約は常人の誓約と大きく異なります。常人は一般的にあることについて誓いを立てることが多く、そのことだけに限ります。しかし、大法弟子の誓約は人生の全生涯において、修煉の全過程を貫いて実行しなければならないのです。

 大法弟子ならみな自分の誓約の中に「師が法を正すことを手伝い、衆生を救い済度する」という項目があると分かっています。以前は私も誓約を果たすとは「今日外に出て法輪功迫害の資料を配布した、今日自分は法を実証した、あるいは江沢民を告訴した」などなどのことだと簡単に理解して、自分は誓約を果たしたと思っていました。もちろん、大法を実証する仕事をするのは自分の誓約を果たすうちに入りますが、しかし、その後、再び師父の『二〇一三年米国西部国際法会での説法』を学んだ時、一段の説法で私は目を覚ましました。私は突然誓約について、精進しないこと自体が誓約を果たさないことだとわかりました。以前は自分は法を正す進展について、三つのことを行なっており、「誓約を果たさない」ことにはならないと思い、「誓約を果たさない」ことと自分を関連付けたことは一度もありませんでした。

 師父の『洪吟四』の中で最も出る言葉の一つは「誓約」なのです。私の理解では多くの大法弟子がまだ良く行っていないため、師父は繰り返し強調されたのだと思います。大法弟子の修煉が全面的に正法修煉に切り替わった後、私たちに与えられた一日、一刻の時間は全て誓約を果たすかどうかを問われており、たとえ毎日三つのことを全て行ったとしても、法に則っていなければ、自分の誓約をきちんと果たしていないことになります。

 今のこの時間は師父が大変な代価を払って私たちのために延ばしてくださったものです。言い換えれば、今の時間は私たちのものではなく、旧勢力の按排によれば、このことはとっくに終わってしまい、私たちが果たさなかった誓約をどのようにすれば、補うことができるのでしょうか?

 師父は大法弟子に次のように教えてくださいました。「すべての生命は歴史の中で行ったことに対して自分で責任を負わなければなりません。特に宇宙で法を正す中で、誰がどういう目的で、何を行ったのか、小さいことであっても、責任を負わなければなりません。法を正す中で正の作用と負の作用を果たすと定められた神、鬼、微小生命まで審判を受けなければなりません。正の作用を果たすものも同様に審判を受け、行ったことの中であなたがしっかり行わなかったために、どれほどの衆生が救われ済度されなかったのでしょうか? もし大法弟子であれば、あなたの誓約はどれだけ実現されなかったのでしょうか? 誓約が実現されなかったことはただの一つの側面ですが、あなたが行わなかった、またはしっかり行わなかったために引き起こしたすべての結果に対して、大小に関わらず、いずれも責任を負わなければなりません。あなたの行なったすべての事によって大法にもたらした恥辱と主に対する欺きに対して、責任を背負わなくてもよいのでしょうか? このことは以前話したことがなく、私はこれらのことを言いたくはなかったのですが、皆さんは本当に目覚めなければなりません。もうどういう時になったのでしょうか?」[1]

 師父は私たちのため、宇宙の衆生のため、幾度となく終了の時間を延ばしてくださいました。私たちは果たさなかった誓約を埋めわせる機会があるのです。私たちが時間を大切にしない理由があるでしょうか?

 すべての大法弟子が一日、一刻、生じた一念、一つの考えのなかで自分の誓約を思い出し、正念を持って大法弟子として最後の道をしっかり歩み、師父から授かったこの万古の機縁を無駄にしないよう心から願っています。

 ささやかで浅い悟りですが、適切でないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をよろしくお願いします。

 注:
 [1]李洪志先生の著作:『各地での説法九』「新唐人テレビ討論会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/5/23/329110.html)
 
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