自らを欺かず 修煉の機縁を大切に!
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 【明慧日本2016年9月6日】最近、私は自分の空間場に、ある物質が深く根付いていることに気づきました。その物質は自分自身を騙し、そのうちに、自分を麻痺させ、修煉者の基準で自分を厳しく律する必要はないとさえ思わせるようになります。すっかり常人の状態に陥っているというのに、心は安らかで、他の同修よりもしっかり修め、深く悟っていると思い上がることもしばしばあります。

 夜の11時半ころになって眠いと思った時、すぐに「ちょっとだけ寝よう」という一念が浮かび上がってきます。これが「今回の発正念はいいや」ということを意味しているとはっきり分かっているにもかかわらず、「発正念しないわけではない、少し寝たら起きて発正念する」と、こうして自分自身に言い訳をして、そして、やはりその時の発正念をさぼってしまうのです。

 このような経験は何度もありましたが、いまだにこれらの妨害に対して「後でする」「今日は疲れたから後で煉功する」「衆生を救わないのではなく、先ず、自分の心性を高めてから行う」など、毎回同じような言い訳をしています。このような精進していない状態に浸っているのはとても悪い習慣です。

 しばらく法を暗記しているうちに、修煉の厳粛さに気づきました。例えば、功柱が1メートル伸びて次元が一つ上がるとして、0.9999と例え小数点の後ろに9がいくつ続いても、それが「1」でない限り、次元が上がることは絶対になく、ほんの僅かでも割引かれるはずはありません。修煉とはこのように厳粛なことであり、少しの油断も許されないのです。

 師父は『轉法輪』の中で説かれています。「修煉の過程において、ほかでもなく人間の身体にもっているさまざまな良くないものを取り除かなければなりません。そうしてはじめてあなたは昇華して上がって来られるのです。この宇宙の特性はそういう働きをするのです。中略。あなたは常人の中で、さまざまな良くない思想をすべて取り除かなければなりません。そうしてはじめて上がって来られるのです」

 修煉の道は師父がすでに按排してくださっています。常人は自らの修煉の道を決められるはずがありません。大法の基準で自分自身を厳しく律し、師父と大法を信じてこそ、上まで修煉していくことができるのです。自分も含めてほとんどの同修は自分の修煉はとても良くできていると思い、目にするのは全て他の同修の不足な部分で、同修が精進していないことに対して、余計な心配をし、時には内に向けて自分を探そうとしない同修のことを怒っている人もいます。しかし、あなた自身の修煉は本当にそんなに良いのでしょうか? 自分の観念で他人を量っているのではないでしょうか? その他の同修は精進して上へいっても、我々自身は圓満成就できるのでしょうか?

 もうこれ以上、このように自分を欺くことはできません。大法の基準で自らを律し、今日、この時の自分自身の修煉状態に真正面から向き合わなければならないのです。心性の向上に努め、自分自身の言動の一つ一つを法の要求通りに厳しく律し、大法に符合しない執着心や物質も見逃してはいけません。

 師父は説かれています。「本当に修煉するには、心に向かって、内に向かって修め、内に向かって探さなければならず、外に向かって探してはいけません」[1]。同修の皆さん、現世一度の修煉の機縁を大切にし、師父が法を正すことを手伝う大法弟子として、重い責任をしっかり引き受け、精進しましょう。

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/8/17/332898.html)
 
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