文/中国・大連市の大法弟子
【明慧日本2016年7月27日】長い間、私は心を静めて発正念することができず、雑念が多く、手も倒れたりしていて、夜中の発正念のベルが聞こえずに寝過ごしてしまい、目が覚めてからすごく後悔しました。ある日、グループ学法の発正念の際、無意識のうちに目が開き、そこで見た光景にびっくりしました。手が倒れている人、寝ていて頭が地面まで接近している人、目を開いて周辺を見まわしている人など、皆は何をしているのでしょうか!
きょう、家で師父の経文を拝読しました。師父はこうおっしゃっています。「大法弟子よ、皆さんの正念は作用があるのです。一人ひとりが働いた作用が合わさると、巨大無比なものになります。それほど大きな作用が現れなかったのはあなたの信念が足らず、正念が足りないからです。これほど多くの大法弟子が同じ時間に全世界で正念を発し、1億以上の大法弟子が全世界で同じ時間に正念を発していますが、邪悪と旧勢力にとって恐ろしいことではありませんか? 神にとっても非常に壮観な光景です。なんと強い力でしょう! 一人の大法弟子の正念が非常に強ければ、山を切り分けることができ、一念でやり遂げてしまいます。迷いの中で、皆さんは自分の能力を見ることができませんが、これはさほど影響がありません。お互い協力せず、正念が足らず、正念を発するとき頭の中でお互いに修煉において内に向けて探さず、外を見ているという執着がいっぱいで、場合によって不満だらけで、誰それを思うと腹が立っているときもあります。それなら、正念を発して何の役に立つのでしょうか? 正しい作用を働くことができず、あなたのすべての考え、思い、執着を全宇宙の神にさらけ出したのです。念を発するときすべて噴出し、全宇宙にあなたという人を見せています」[1]
ここまで読んで、私は身震いをしました。これはまさに私への棒喝ではありませんか? 師と法を堅く信じていないがゆえに、正念が足りず、いつも目を外に向けて他人の欠点を探し、自分を着実に修めませんでした。発正念の時、まさに誰それを思うと腹が立って平然としておられず、すべてのよくない考えや思い、執着を全宇宙の神にさらけ出していたのです。思えば、恥ずかしくてなりません! 自分の修煉はまだまだです。
しかも、十数分の発正念の時間は、師父が私達に下さった威徳を樹立する機会ですが、私はその貴重な時間に、自分のよくない一面を神々にさらけ出しました。
数々の発正念の時間を浪費したにもかかわらず、発正念を行う度に、私は同修達の不足を思い出していました。誰それの手が倒れた、誰それが寝ていた、誰それが功能を用いて発正念をしてはいけないと言ったとか……思っているうちに、自分も1時間以上寝てしまっていました。これはどれほど大きな漏れでしょう! まさに旧勢力が按排した道を歩んでいるのではありませんか?
これ以上じっと座っていることができず、私はペンを手に取りこの段落の法を転写し、繰り返し読みました。内に向けて探しているうちに、自分が見た同修の不足のすべては実際、自分の問題だと気づきました。同修はお互いの鏡です。自分の見た他人の問題はきっと自身に存在します。同修の欠点に対する執着をやめましょう。師父が皆を見ておられます。
他空間の針ほどの隙間からでも億単位の目が私たちを見ていることを考えると、私は怖くなり、これ以上自分の怠惰や安逸を放任してはいけないと思いました。今から頑張って、一つの考え、一つの念が宇宙の法理に符合するように努め、無条件に内に向けて探し、宇宙の大法に同化したいと思います。師父が見ておられ、神々が見ています!
そう思って、私は座禅して発正念の姿勢を取ると、すぐに心が静まり、長い間のよくない状態が改善されました。私はまるで深い峡谷に押し込まれたように、すべてが止まり、頭には師父の正法の口訣しかなく、すべてが静まり返っていました。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『大法弟子とは何か』