明慧法会|法を信じ正念で事に接した夫婦に奇跡が現れる
■ 印刷版
 

文/山東省の大法弟子 修善

 【明慧日本2016年11月30日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 全世界の同修の皆さん、こんにちは!

 私たち夫婦は普通の農民で、妻はかつて多くの病気を患っていました。妻のために治療と薬を求め数十年も治療し、使ったお金がいくらになるのかわかりません。しかし妻の病気は治らず、それどころか、ますます酷くなり、まだ40歳代でしたが、最終的には起き上がるのさえ困難になりました。

 1996年の秋、妻が法輪大法を修煉し始め、半月経たないうちに体の全ての病気が奇跡のように消失し、家事ができるだけでなく、畑仕事までもできるようになりました。大法の素晴らしさと妻の体の大きな変化をこの目で見て、1998年に、私も自然に修煉の道に入っていきました。

 大法を修煉する前、とても強い闘争心と自分を守ろうとする心があり、いつも自分が泣きを見るのではないかと恐れ、その上、今の社会は道徳が堕落しているのでいつも他人を警戒し、出かける時は身を守るため、いつもナイフを持っていました。時には2本のナイフを持ち歩き、他人と喧嘩になったらどうしようかといつも考え、どのようにすれば騙されないで済むかをいつも考えていました。修煉後は真・善・忍の基準に従い身を処することがわかるようになり、利益上のことで人と争わなくなりました。また他人を大切にするようになり、トラブルに遭ったときは相手に譲るようにしました。トラブルは自分が以前借りた業であることがわかると、以前よりもずっと穏やかになりました。

 1999年7.20以後、中国共産党が天地を覆い隠すかのように狂ったように迫害を始めました。私と妻は共に大法を守り、迫害を否定しました。真相を伝える資料を製作して配り、真相シールを貼ることなどをしました。それは私たちが人を救う主要なやり方で、何度も魔難と邪悪の試練を経験してきましたが、師父の慈悲なるご加護の下に歩んできました。師父への感謝の気持ちを表すために、法会の機会を借りて、自分の修煉の道でのいくつかの出来事を書き、皆さんと交流したいと思います。至らないところがあれば、同修の皆さんの慈悲なるご指摘をお願いします。

 トウモロコシ畑で妻のために道が開け、危険を脱する

 大法の無実を訴えるために何度も北京へ行ったため、私たち夫婦は地元の迫害の実行機関に目を付けられ、何度も不当に拘禁されました。

 2002年、晩秋のある日の正午、妻は家の田畑でトウモロコシの残りの株を片付け、忙しくしている時に、突然、妻を呼ぶ声が聞こえたので振り向くと村の幹部がいました。「村内で法輪功を担当する40人以上の人が、すでに村に到着しており、あなたも村民委員会まで行くように」と言われ、また「村民委員会に協力するように」とも要求してきました。そこで妻は村の幹部に「煉功をして良い人になろうとしているだけで、何も間違ってはいませんので、村民委員会には行きません。もし、強制的に連れて行ったとしても、村民委員会で死んでも、私は決して転向しません。死んだ時は家族が引き取りにあなたに会いに行くでしょう!」ときっぱりと断りました。

 村の幹部は妻の断固とした態度を前に静かになり、態度も柔らかくなり、妻に「それなら、早く逃げなさい! 村民委員会の人員がすぐにあなたを捕まえに来るので、私はそれを恐れています。大通りに向かって走ってはいけません。早くトウモロコシ畑の中を走って逃げなさい!」と言いました。妻は「あなたは今日、私を逃がしてくれ、大きな徳を積み、必ず素晴らしい未来があるでしょう!」と言いました。

 妻は自転車を引き上げて、逃げる準備を始めました。ちょうど秋の刈り入れが終わった後で、周りはひと目で見渡せる開豁地 (かいかつち・遮蔽物のない広く開けた畑地) で、小さな物でも遠くからはっきり見ることができ、人がいたらすぐにでも目につきます。南側にはわずかに刈り取られていないトウモロコシ畑があるだけでした。そうすれば妻は南に向かって逃げるしかなく、なぜなら、東西両方向とも大通りで、北側は私たちの村です。トウモロコシ畑には東西方向にトウモロコシを植えたうね溝があり、密生したトウモロコシの葉っぱで覆われ、南北方向はほとんど風も通らないような状態でした。慌てながら、妻は「師父! どこを通り、逃げればいいのですか?」と呼びかけました。この切羽詰まった瀬戸際に師父に助けをお願いすると、考えられない出来事が起こりました。目の前のびっしりと生えているトウモロコシの茎が、「一斉に」東西両方向に離れ、妻のために、50~60センチ幅の広さの南北方向の道が開けたので、妻は必死にその道を走り抜け、危険な状態から抜け出しました。

 師父と法を本当に信じれば、大法の素晴らしさが現れてくるのです。

 私を殴る人はつらい思いをする

 妻がやむなく家を離れてから間もなく、地元の「610弁公室」が警察署の警官に指図して塀をよじ登って、部屋に入って来ました。私を警察署まで連行し、さらに師父の写真と大法書籍、それに真相資料を押収していきました。

 私が警官たちの不当な要求に少しも協力しなかったため、大隊長が怒り狂ったように、私をめった打ちにしました。さらに大隊長が私のこめかみのあたりを蹴ったので、気を失い、目が覚めると4、5人の警官に押さえられていました。私の両手を背中に回して手錠をかけ、拘禁しました。

 私は絶えず正念を発し、警官を操って大法弟子を迫害するすべての邪悪要素を取り除きました。同時に「中国共産党はなぜ警官を操って、私を迫害しようとするのか?」と内に向けて探しました。そして「私は法を習っているから何も怖くないと思っていたが、これは大法と師父を後ろ盾にしていたということではないだろうか?」ということを探し出しました。また今まで師父のご加護の下で、真相を伝え人を救うことが順調だったので、気付かないうちに歓喜心が起きていました。それらを見つけた後、急いでそれらの人心を払いのけました。次の日の午前中、警官たちは手錠で私を椅子につなぎ、めった打ちにして苦しませました。大隊長は私の胸や肩、太ももや背中を拳でひどく殴り打撃を加え、靴のかかとでつま先や足の甲を蹴り、つま先で私のすねを蹴りました。

 警官たちが、大法弟子に対して悪事を行うことを制止するために「私は李洪志師父の弟子で、師父が旧勢力の按排を認めないのであれば、私も認めない。師父がこの迫害を認めないのならば、私も認めず、警官を操って私を迫害する中国共産党を根絶し、警官の私に対する迫害の痛みを警官の体に返し、警官にこの迫害を帰し、私はまったく迫害を受け入れない」とゆるぎない決心とその強い一念を発しました。すると、痛みと苦しみの感覚がなくなり、その代わりに私を殴った警官が「ああ、うう・・・ああ・・・」と苦しみもがき始め、駆けずり回りました。

 続いて警官たちは私を洗脳班へ連行し、11人が私を見はり、私を「転向」させようと企みました。ある警官が人の話の受け売りで、法輪功学習者の「4.25」平和陳情を誹謗中傷したので、私は静かにその警官に「中南海は中央管轄公務を行う場所で、中に軍隊と武装警官はいないのですか?」と聞きました。するとその警官は「いる!」と答えました。そこで私はまたその警官に「武装警官の歩哨は銃を持っていないのですか?」と聞きました。その警官は「持っている!」と答えました。私は「まったく武器を持っていない学習者が、どうやって軍隊と武装警官のいる中南海を包囲し攻撃できるのですか?」と聞きました。私の話を聞くとその警官は、何かを考えている様子で行ってしまいました。

 その後、別の警官が天安門広場で、1人の警官が学習者の頭部を足でけっている写真を私に見せ、さらに、学習者が法に触れていると誹謗中傷しました。そこで私はその警官に「写真では誰が人を殴っていますか?」と聞くと、その警官が「警官だ」と言ったので、私はまたその警官に「殴られているのは誰ですか?」と聞きました。すると、その警官の答えは「法輪功の奴だ」でした。そこで私は「法律では人を殴ることが、法に触れていると規定していますが、学習者は殴られているのに、それが法に触れているのですか?」と言いました。その警官は驚きのあまり「だめだ、だめだ、すべてだめだ・・・」と言いながら、困り果てて離れていきました。その警官をコントロールしていた邪悪が解体された事を私は知りました。

 1週間後、私を監視していた人を正念を発して眠らせ、それから塀を乗り越えて脱走しました。

 資料拠点での出来事

 同修の助けの下、私と妻は資料拠点に来て、地元での資料作成と資料運送の重大な任務を抱えました。

 それ以後の4年あまり、何にも負けずに歩み、資料拠点を運用する中で、私と妻は毎日法を実証する仕事以外に大量に法を勉強し、正念を発し、ほとんど一刻もゆるめませんでした。妻は毎日18回もの正念を発していました。

 私たちの生活は苦しく、時には数カ月続けて毎食カボチャ(その頃、カボチャは1元で5キロ買えた)を食べましたが、1日も欠かさず法に溶け込んでいたので、生活が充実し、心の状態はとても純正でした。師父と大法を信じていたので、超常的で神秘的な出来事がいつも見られました。妻が座禅していた時、体が2回浮き上がり、ある強い力が妻を上へ押し上げていたのを感じました。また、妻が正念を発していた時、蓮花手印の中で太い光の柱が天の上に直通しているのがはっきり見え、柱全体が絶えず上に向けて上昇し、さまざまな色の蓮の花で満ちていました。師父がこのような方法で確固とした正念を持つよう、私たちを励ましてくださったのです。

 師父のご加持の下、学法し着実に自分を修め続ける中で、私たちの心性と次元は向上しましたが、中国共産党の妨害と試練もまた私たちにいつも伴っていました。私たちが常人の観念をもたなければ、起きた問題に対して法理から判断することができ、師父の慈悲なるご加護を得られるので、それによって無事に危険を免れることができ、窮しても道は開けたのです。

 大家さんは私たちが良い人であると褒めた

 そのころ、私たちはある村で借家に住んでいました。大家さんは村に住んでいる人ではなく、家族はみんな街にいました。この家は全部で6室あり、真ん中は壁によって切り離されており、片側に3部屋ずつありました。私たちは大家さんの家の西側の3部屋の家を仮住いしていました。

 ある夏の深夜、私たち夫婦と外地から来た1人の男性同修が夜半の12時の正念を発し終わった後もまだ起きていると、突然、壁の向こうの大家さんの家から物音が聞こえました。がさつく音がだんだん大きくなり、どうやら泥棒が大家さんの家のアルミ合金の窓を取り外そうとしているようでした。私たちは大家さんの家に泥棒が入ったのがわかりました。外地から来た男性同修が私たちの寝室の扉を叩き、一緒に相談しました。「このような状況で袖手傍観(しゅうしゅぼうかん・手をこまねいて、ただ何もせずにそばでみていること)することはできません」と男性同修は壁を乗り越えて泥棒の犯罪を阻止しようとしましたが、私と妻は頑として同意しませんでした。なぜなら、この出来事は単純ではないと思ったからです。これは他の空間にいる邪悪が資料拠点にまで突き進んできたということであり、それならば、私たちは軽率な行動をすることはできず、邪悪の罠にはまらないように防止することを考えなければなりません。時機を待ちながら正念を発するべきであり、まず資料拠点を妨害し破壊しようとするすべての邪悪を解体するべきです。そこで私たち3人は、長い時間正念を発しました。

 次の日の朝早く、協調人の同修に会って手伝ってもらい、私たちの所の全ての設備と消耗品を急いで運び出しました。私たちが借住いしている家は、地元の協調人の名義で借りた家(協調人の兄と兄嫁として)でした。そこで、協調人の名前で、大家さんの家で盗難があったことを大家さんに知らせました。すると大家さんは感激して「あなたのお兄さんとその奥さんは本当に良い人で、私の家を借りて門番までしてくれる。もしお兄さんと奥さんがいなかったら、どれだけ盗みに入られていたかわかりません」と感謝しました。

 大家さんの親戚は公安局の幹部で、すぐに警官を派遣して現場検分に来ました。大家さんと公安局幹部の東側の家での話し合いは、私に非常にハッキリと聞こえました。警官たちの中には「借家人がやったのだ」と疑っている者もいて、西壁を観察していました。西壁には一面にコケが生えており、もし私たちが壁を登って行ったならば、必ず明らかな痕跡が残るはずですが、何の痕跡も残っていませんでした。警官たちはまた、壁の下の両側の雑草を観察しましたが、踏まれた形跡がありませんでした。奥の庭もチェックしましたが、不審な点を何も見つけることができなかったので、私たちとは無関係だという結論を出しました。

 結局、警官たちは村の数人のぶらぶら遊んでばかりいる若者を捕まえ、その若者たちの仕業であると確定させました。

 この出来事を後で考えてみた結果、もしあの時、私たちが壁を登って行ったならば、その結果は推して知るべしで、巻き添えになったばかりでなく、村の泥棒も私たちを見逃さなかったでしょう。そうなれば、私たちの身分も暴露され、資料拠点が破壊されたならば、大損失になったでしょう。私たちが正しい行いをしたので、大家さんも誤解せず感謝したのです。

 正々堂々と重囲を突破する

 ある夏の夜、交流するために、協調人が資料拠点の同修5人を湖畔に招集し、私と妻は歩いて行きました。湖畔に着いてみると、涼みに遊びに来た人がたくさんおり、他の3人の同修はオートバイで来ていました。私たちが集合して数分も経たないうちに、とんでもない出来事が起こりました。何が原因かわかりませんが、私たちは尾行され、さらに誰かに通報されており、マイクロバスが1台、突然私たちの前で止まり、マイクロバスの中から7、8人の警官が下りて来て、私たちを包囲して向かってきました。協調人の反応は速く、すぐにオートバイに乗り、まだエンジンがかかっていたオートバイを走らせました。他の男性同修2人は西に向かって駆けましたが、その場で警官に捕まってしまいました。

 その時「私は李洪志師父の弟子で、それ以外の按排は不要で認めず、すべての邪悪生命と要素は、私たちを迫害する資格を持っていない」と思いました。私と妻は気持ちを静めて立掌しながら、正念を発して戻って行き、恐怖心はなく、とても純正で、まるでこのすべてが、私たちと全く関係がないかのようでした。やじ馬も警官もみな、正念の場によって制約を受け、私たち2人に道を譲るかのように、自動的に1本の道が開け、皆が注目している中を立掌しながら正々堂々と立ち去りました。

 雪に覆われた凍てつく中で、師父の法を思い出す

 妻が故郷へ戻ったのは中秋の時期で、1足のパンプスをはいているだけでした。さらにその年、資料拠点の同修はほとんど路頭に迷い、生活が苦しいため、冬であっても妻はただ1足のパンプスしかはけませんでした。

 ある日、私は用事があったので、妻に地方に行ってもらい、同修に資料を届けてもらわなければなりませんでした。したたる水も氷になるような寒い季節に、パンプスをはいただけでは何もはいていないのと同じで、刃物で切られるような骨身にこたえる寒さに、たまらなくなりました。そこで妻は「その時、私は寒いことに対して他の方法を取っていました。『あなたは冷たくて、私を寒くさせ、私を凍えさせようとするのですか? 私はあなたより冷たくなり、あなたを凍えさせます』と私はこのように考えていました。『私を暑くするのであれば、逆に私はあなたを暑くさせ、あなたが耐えられないほど暑くします』」[1]という師父の法を思い出しました。するとそれによって、一陣の暖かい流れが全身を透過し、足と体全体が暖かく熱い流れによって包まれ、綿入りの服を着て綿入れの防寒靴をはいているよりも暖かく、涙が目にあふれ「法に沿ってさえいれば、師父はいつも弟子を加護してくださる」ということをはっきりと感じました。

 法輪が先に立って道案内を

 ある年の冬、雪が降った朝はまるで氷と雪の世界のようで、霧が立ち込めており、視界は10メートルより先は見えず、あたりは一面真っ白でした。人里離れた村の同修に、緊急に資料を届けなければならず、滑りやすいことなど顧みず、自転車に乗って出発しました。その時、私の頭の中には「雪の日で道が滑りやすい」などという観念はまったくなく、清浄で、霧が立ち込めていることもまるっきり考えていませんでした。

 同修のいる村に到着した時に道に迷ってしまい、周囲は真っ白で、方向を見分けることができず、徘徊していたちょうどその時、突然目の前がぱっと明るくなり、前方20メートルのところに、直径約1メートルの大きさの法輪が回転していました。私は嬉しくなり、法輪の導く方向へ行ってみると、前方の曲がり角の所が同修の家でした。

 竜巻が私を避けて通り去る

 ある日の正午、田んぼの小道から自転車で同修に資料を届けに行った時、突然前方で強い旋風が起こり、黄土の柱となって巻き上がり竜巻となり、直進して来きました。これは私が資料を届けるのを妨害する、他の空間にある邪悪が起こした災いであると考え、ただちに発正念の口訣を念じると、それに伴い竜巻の柱はなんと方向を変え、私の横を通り過ぎて行き、資料を順調に同修の所に送り届けることができました。

 修煉の道では、多くの不思議な出来事が数々ありました。これらすべてを、師の恩に報いることは難しく、大法弟子として、今後三つのことをしっかりと行うことで、師父の慈悲なる済度を無にしないようにすることができるのです。

 師父、ありがとうございます!

 同修の皆さん、ありがとうございます!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『二〇〇三年元宵節での説法』

 (明慧ネット第13回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/8/337148.html)
 
関連文章