「4・25」の思い出
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 明慧日本2015年4月29日】

 「4・25」は忘れられない日でした。

 「4・25」は殊勝な日でした。

 「4・25」は暖かい日でした。

 私は中国本土の大法弟子で、幸運なことに、1999年4月25日に1万人の平和陳情に参加しました。私にとって強く印象に残る出来事であり、私はこの「4・25」に感銘を受けました。

 忘れられない日

 1999年4月24日の夜、煉功拠点で集団煉功が終わった後、輔導員がこう言いました。「天津の何人かの法輪功学習者が警官に殴られて、拘禁されました。明日、天津の法輪功学習者達は北京へ陳情しに行くそうです」。その事を聞き、私たちも北京に近いので、翌日北京へ陳情しに行こうと皆の考えが一致しました。

 4月25日の朝、私たちは政府への信頼感を抱きながら、次々と北京に到着しました。北京大学病院入院部まで300メートル離れるところに着くと、多くの学習者がそこに立っている様子が見えました。隊列が前へゆっくり移動しており、最後に赤い壁の西側の路地の入口のところに止まりました。終日、皆は秩序正しく、平和で静かでした。音声スローガンや標語なども一切ありませんでした。トイレに行くと秩序が乱れることを避けるため、皆は一日殆ど飲食をしませんでした。夜になって、天津事件は解決され、皆は静かにその場を後にしました。地上に紙くずさえ一つも残っていませんでした。今回の陳情は後になって「中国の陳情史において、最大規模、最も平和で理性があり、最も円満な陳情」と称されました。私はその日を忘れることができません。

 殊勝な日

 午後4時ごろ、ある女性学習者が夜勤の仕事へ出勤するのに、路線バスの停留所が見つからなかったため、私と他の2人は彼女をバス停まで送りました。戻る途中、西側の空の太陽のところに大きな法輪が見えました。その法輪は他の2人にも見えました。それは丸くて『轉法輪』にある法輪図案と全く同じでした。私達は非常に感激し興奮して周りへの配慮を忘れてしまいました。「秩序を守ってください」とある学習者から声を掛けられてから私は我に帰りました。周りを見ると、他の多くの人も太陽の方を向いて見つめていたことが分かりました。暫くして、太陽がビルで遮られて見えなくなりましたが、地上にある様々なサイズの法輪は回転し続けていました。その日の風景はまだはっきり私の目に残っているかのようです。それは師父の慈悲であり、師父が私たちに大法の殊勝、玄妙と超常を見せて下さったのです。

 暖かい日

 夜、解散の時、既に22時になり、バスなどの交通機関の最終便がなくなってしまいました。旅館も見つからず、私たち10数人はある路地に立ち止まりました。その場所には数本の大きな木があり、私たちはそこで一夜を過ごそうと思いました。その時、路地から一人の女性が出てきて、私たちに家に来るように誘ってくれました。その女性も陳情から帰ったばかりだそうです。私たちは人数も多く、また彼女と全く面識もないので、その誘いを謝絶しました。しかし、彼女が非常に親切で真剣なので、その厚意を受けて私たちは彼女の家で休みました。私たちは師父の段取りのお陰で、ようやく休憩できるようになったのです。彼女の家に入ると、窓に多くの「喜」が貼ってあり、赤の飾りの布団を目にしました。息子が「五・一」に結婚する、それは息子の結婚用の部屋だそうです。私たちはとても感動し、暖かくて、疲れていましたが、誰もベッドに座ろうとしませんでした。翌日の朝、彼女が私たちに作ってくださったお粥を食べて、お腹が温かくなり、心も温かくなりました。私は、現在も彼女がどんな名前だったのか知りません。ただ彼女が医師であり、大法弟子だった事は知っています。その女性同修が、今も着実に修煉の道を歩んでいることを私は心から祈ります。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/4/24/293189.html)
 
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