明慧法会|10年間にわたり困難の中で資料拠点を堅持する
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 文/中国東北地方の大法弟子

 【明慧日本2015年4月6日】私は地方からここに来て1997年に幸運にも修煉を始めました。1999年1月には主人と辺境の町に移住して、丸5年住んでから、2004年の初めにこの第二の故郷へ再び戻りました。この時、古くからの多くの同修は全員中国共産党に重刑を課され刑務所に監禁されており、地域の同修はすでに数カ月『明慧週刊』を見る事が出来なくなり、さらに真相資料も無くなりました。

 一、責任は肩にかかっている

 私は真相を伝えている時、精進していた協調人の同修に連絡し、同修の協力の下で、私は2004年の秋に資料拠点を確立し、すぐ業務を覚えました。当時、同修の姪が私に協力して働いてくれたので、そのうち『共産党についての九つの論評』の本と、それに様々な法輪功のDVDやパンフレットを大口で作り始めました。連絡する同修が次第に増えてくるのに伴って、必要な資料もだんだんと多くなりました。当時、協調人だった同修が消耗材を運び込むのを手伝ってくれた時、その運び込んだ紙の箱が4、50箱にもなったことが一度あったのを私は覚えています。

 資料拠点は仕事が多く複雑なので、毎日てんてこ舞いの忙しさでした。インターネット、ダウンロード、プリンタ、資料作り、DVD作成、真相紙幣の印刷、資料の手渡し、さらに正常な状況でも、『共産党についての九つの論評』250本、法輪功のパンフレットが800~1000冊、地域の同修に行き渡らせるのに必要な新経文が70冊、これだけのものを一週間で作ることが必要で、消耗材を買う事から廃品を売る事まで、大きい事も小さな事も自分でやらなければなりませんでした。時にある同修が連行されたりすると、さらに忙しくなりました。その時は、その同修の家族を見つけて状況を理解させ、慰め励まし協力して救出するのですが、私はまずインターネットで悪を暴き、速やかに同修と簡単な交流をして「お知らせ」を作成します。それからそれぞれの枠組みの中で「お知らせ」が送られると同修が積極的に救出に向かい、至近距離で発正念しました。また帰って来たばかりの同修が交流を必要としているのであれば切磋琢磨しあいました。

 2006年、同修の救出に資料が必要なために、私はこの地区の真相資料の編集をまた始めました。そのためよく早朝の2時まで編集の仕事してから休んでいました。まる10年、自分はこの方面の資料を引き受けています。この間、私はどれほどの大きさの圧力と摩難に面しても、個人的な原因では、一期も『明慧週刊』を遅らせた事はありません。師父の新経文はいつも何があってもすぐに同修の手に送られました。資料は一番遠くて80キロ離れたところまで届けることができましたが、それ以外は、交通が不便でも、行く場合は、私は電動バイクに乗って40キロ離れた、ある同修の家へ先に行きました。ここには付近に何人か同修がいていろいろな資料を必要としていました。そこからバスに乗って約20キロを走行して別のお年寄りの同修の家へ行き、簡単ですが交流し状況を理解し、その同修に精進するよう励ましました。次に、定期便のバスに乗ってある年配の女性同修の家へ行き、何か助けが必要かどうかをもう一度様子を伺います。それは例えば「MP3が調節できなくなった」などです。そして老年の同修の家から一台の自転車を借りて、自転車に乗って35分かけて一番遠くの同修の家まで行きました。その往復の道のりはバスを待つ時間を含めると5時間ほどが必要でした。これを3年続け、その後、近くの同修に連絡し、一番遠くの所は他の同修に責任を持ってもらう事にしました。

 資料拠点の仕事をしてから、いくら忙しくしていても、私は学法を重視して、着実に修め、どこでも何事でも法を用いて自分に厳しく要求し、事に当たってはできるだけ平然として心が動じない域に達するようにしていました。私は資料拠点で財産を没収された同修の状態も見かけた事がありますが、長く学法を重視せず、学法時に眠気を催しぼんやりした状態が現れたり、発正念の時に掌が倒れる状態を長期にわたり突破できないのは危険です。なぜならこのような人はお金を稼ぐのに忙しく、大量の時間と精力をお金を稼ぐ事に費やし、この世の中でもがいているからです。彼はこのような状況から自力で抜け出せず、また十分に学法せず、三つの事を行わない同修もいますが、このような同修は迫害されるのです。

 このような事はみな、いつも私の目を覚まさせてくれました。私は絶対に法をよく学ばなければなりません。自分をしっかり修め、邪悪に付け入れられることなく、決して大法に損失をもたらすようなことはあってはなりません。それは私が危険かどうかは、もう私だけの事ではないからです。周辺の同修の修煉のために私はこの仕事を担当しなければならず、私はこの側面において衆生を救う事に責任を負っているのです。そしてこれが私の使命と責任なのです。

 二、迫害を否定する

 2002年4月初め、私が住む町で警察は三日三晩にわたって大規模な捜索を続け、3日で300余名の大法弟子が労働教養所に連行され迫害されました。同修が迫害されたのを見て、迫害が家庭や社会的な面にもたらした悪い影響と損害は、邪悪の暗い深淵に多くの衆生を駆り立て、私は、あてもない思索へと追い詰められました。大法弟子が捕まり、殴られただけではなく、迫害され死亡した事は、もう私一人でどうにかできる問題ではなく、また個人的に恐ろしいか恐ろしくないかという問題でもなく、その背後は一つの大きな生命の危険に及んでいるのです。それではどのように迫害を避け、迫害を否定できるのでしょうか?

 その時、師父の『北米での巡回説法』が発表されたばかりで、まだ広範囲に届けられていなかったので、私は繰り返し学び、理解しました。わかりました! そうです。迫害の目の当たりにしてなす術がないのではだめです、消極的に受け止めるのはもっとだめで、生死を放下するのです。生死を放下すれば、金剛力士がじっと座っているかのように、大きな岩のように堅固となり、迫害を否定できるようになるので、邪悪の徒はすぐに動く事すらできなくなります。

 2003年7月のある日、3人の警官が突然私の家に闖入してきました。ちょうど姉(同修)が孫を連れて私の家に来ていて、応接間でちょうどお姉さんの孫に数学を教えていたところでした。私が警官を見た時、もう警察官の二人は入って来ており、もう一人の警察官は応接間の入口で電話をかけるふりをしながら、「私は靴を履き変えなければなりませんか?」とわざと訊いてきました。私のその時の第一念は「あなたはこの部屋をどうこうできるはずがない」でした! その後、「あなたは私の家の土地びくびくしながら踏みつけているのですか? それはあなたたちが憲法を踏みつけているからではありませんか?」と、とても厳しく大きい声で言いました。その後「法輪功は『真・善・忍』を伝えていますが、何がいけないのですか? 信仰の自由を享受することは何がいけないのですか?」と警官たちに質問しました。するとすぐ彼らは静かになって、ぎこちなく私の夫のほうに話かけていました。その隙をみて姉は孫と一緒に部屋を出ました。別れ際に私は姉と自然に別れを惜しむ語らいをしました。姉は帰宅すると直ちに私のために発正念してくれました。

 「部屋に入って見てみよう」と警察官が笑みを浮かべ寝室を指差して言ったので、即座に「捜査令状はありますか?」と私は大声で言いました。寝室には以前、姉が送ってきていた師父の説法テープが置いてあったのです。若者の警官が外へ後ずさりながらポケットから一枚のよれよれの紙を探し出し「これが捜査令状です」と機械的に答えました。彼の答えは筋が通っていなかったので、私はこんなおもちゃの様な紙は認めませんでした。このように大法弟子が正念を持って正しく行った結果、結局この3人の警官はすごすごと立ち去りました。3人の警官が何か言いながらにぎやかに楽しんでいるのを、私は後で窓から見たのですが、「これは3人の警官が大法に対して犯罪者にならなかったからだ」ということを私は悟り、同時に「大法弟子の正念は威力あるものである」[1]というこの法の内容も私はより印象深く理解しました。

 2003年の後半のある日の午前、警察官が私を騙して扉を開けさせ、後から10人以上の警官が入って来たのですが、みな私が知らない警官で、強制的に私を不当に交番に連行し、「ここでは誰を知っている? よそでは誰を知っている? 誰と行き来があるんだ?」とリーダー格の警官が私に聞きました。私は意地になり、顔を上げ、天井を見ると発正念し、「交番に連れてこられたことのは、もうこの事は私にとって恥辱だ、だから一言たりとも私は言わない」と思いました。中国共産党がどのような態度を取ろうが、心は動じず、師父が要求された「生死を放下することができ、金剛不動になれば」[2]を実行しなければなりませんでした。彼は私を見ても驚かず怖がっていないように見えましたが、「法輪功はこのように、何も答えようとしない。あなたたちは私を送り返し、あとは勝手にして下さい」と逃げるように立ち去りました。後で彼は市の公安局『610弁公室』のボスだったとわかりました。

 この警官が去った後、ある警察官が一本の録音テープを持ち、「◯◯という者と私の電話の会話の内容が警察に盗聴されて記録されており、その音声を私を迫害する拠りところにしようと図っていた」という事実を私に教えてくれました。「〇〇は私の甥です」と私は話し、さらに警察が我が家の電話を盗聴した違法行為を責めました。私は「甥と話した時、話し声が大きくなったので、邪悪に隙を突かれた」という事を、しばらく経ってから悟りました。それでも、邪悪の徒は大法弟子の正念の下では大した事は何もできませんでした。大法弟子にとって、いつでも師父がおっしゃる事は本当の事なのですから、私たちは自分をしっかり修めればそれでいいのです。

 2008年、北京オリンピックの前夜、中国共産党は狂ったように大法弟子を迫害しました。私たちの地域の3つの資料拠点は破壊され、ある同修が残虐な拷問を受け、10人を越える同修の事を白状してしまったので、私ともう一人の協調人のAさんも白状させられたのです。7月初めのある日の午後、私が同修に資料を送って帰ってくる時、私は一台のパトカーが庭にいるのを見ました。あまり気にもせずに階段を上がり、部屋に入ると、2分も経たないうちに警官が階段を上がって来てドアを叩きました。この時、私は庭にもう3台のパトカーが来ているのが見えました。警官たちは一軒一軒ドアを叩いて「身分証明書」を調査していました。たまたまその場に同修のAさんが私の所におり、私たち2人は座って一緒に発正念し、邪悪を除去しました。警官は私たちのこの集合住宅の中に30分間逗留して去りました。数日後、また連続して何回も来ましたが、あの日のような殺気はもうありませんでした。

 8月初め、警察が私たちを不法に指名手配し、一万元の懸賞金をかけた事が明らかになり、ある同修が「『指名手配令状』がどこかに貼ってあった」と教えてくれました。しかし、私の正念はますます強くなりました。「中国共産党は私たちがどこにいるかわからないのでやっと『指名手配令状』を出してきた」という事がわかり、私もそんなおもちゃのような紙切れを認めませんでした。邪な連中がだした懸賞金付きの指名手配を受けたからといって、私は法を実証するあらゆる仕事を遅らせることはなく、いつもどおり自分がすべき事をし、留置場、公安局、検察院、裁判所に同修と行っては、至近距離から発正念しました。同修を違法に法定審問した公文書は何度も私の名前を取りあげていました。しかし私は裁判所の門の所で発正念し、大法を迫害し、大法弟子を迫害する邪悪を解体したのですが、その門との距離は十数メートル離れていただけでした。

 三、間一髪で何事もなかった

 資料拠点は整然と平穏無事に動き、表面的には波風もたたず何事もありませんでした。しかし他空間の邪悪は時々刻々に虎視眈々と隙をねらっていたので、いろいろな妨害は何があってもなくなることはありませんでした。誰かがドアを間違えて、怪訝そうにドアをとんとん叩いたり、不動産関係者の立入登記で、何のいわれもなく捜査令状を出されたりしましたが、どんな邪魔が入っても、私は依然として発正念をしていました。毎日私は正念を十分にして同修に対面し、また、同修と法に則って切磋琢磨し合いながら交流し臆せず談じる事ができましたが、資料拠点に戻ると、他空間の物質がここに圧力をかけてくるので、時には、常に警官がドアを突き破って押し入って来るのではないかと感じていました。あの頃の圧力はけっこう大きかったのです。

 2009年2月のある日の朝、部屋が寒かったので、私はベッドの上で煉功し、暖房器具(旧式で不用心なもの)を点け、煉功が終わってから、私はバスルームへ行って顔を洗い口をすすぎました。3~5分もしないうちにバスルームから出たのですが、目の前に現れた光景に私は驚きました。真っ黒な煙がドアの隙間から外に吹き出していて、部屋の中に入って見てみると、ベッドの上を覆っている布団や敷き布団が全部燃え出し、炎が高く燃え上がり、部屋は煙が充満し・・・なんとこれは暖房器具が倒れたために起きた事でした。私は急いで鉢の水を運んで火の上にかけ、また、濡らした布団を暖房器具の上に被せました。後になって初めて暖房器具のプラグがまだコンセントに差し込んだままだった事に気づきました! 壁はいぶされて真っ黒になってしまいました。冷静になって状況を把握すると「とても危険だった!」と怖くなりました。もし師父に守られていなければ、後の結果は想像に耐えないものがあります・・・。

 2012年の夏、私はパートタイムのお手伝いさんの仕事を終えて家に帰って行く途中、十字路を過ぎた時、何かに押され、5、6メートル遠くにまっすぐ前へ押し出され転びました。私はその場所で立ち上がってから、「何と一台の『横暴な運転』の大型ジープが私を転ばせたのですが、車が止まってから、私はやっと地面に転んだ」ということに気づきました。さらに「師父が私を引きずりまっすぐ前進させ、車が止まってから手を放して下さったのです。私も転ぶはずのところで転ばずに済み、転んでもどこも痛くない」という事を理解しました。中年の運転手は困ってしまい、早々に車を降りてきました。「私は法輪功を学んでいますので、何も異常はないし、師父の保護がありますから大丈夫です。ですからあなたは行ってください」と、私は運転手に言いました。帰ってから見てみると、私が着ていた白い服は塵一つ付いておらず、洗う事も必要なかったので、私の未返済の命の借金はこのようにして師父の保護の下、解消したのです。

 四、真相を世の中にあふれさせる

 2013年、ある同修が欠かせない資料を作るのを手伝ってくれたので、私は力を傾けて神韻DVDを配りに出て行きました。ある同修は朝、市場の屋台に行って神韻DVDを配ろうとしましたが、協力する人もいませんでした。ちょうど私がその事を聞きつけ、私たちは約束をして配りに行きました。初めての時は50枚持って行っただけでしたが、次からは100枚とそのDVD用のプロフィールの資料を持って行き、2人で一緒に紹介しながら配ったのですが、とても神聖で、とても良いと感じました。

 ある日の朝、一番近い市場に行くつもりでいたところ、同修の姪が来て、私と一緒に行く事に同意したので、170枚の神韻DVDと簡単な紹介チラシを私たちは持って出掛けました。しばらくしてその街に来てみると、人が多かったので、私たちは二手に分かれて真相を伝えながら配りました。姪は配り方が速く、私が見ると彼女はまるで天女のように行ったり来たりしていました。30分かからずに私たちは配り終え、帰りの道で、「あなたはどうして配るのがあんなに速いのでしょう?」と、私は姪に質問しました。すると「何も考えずに、人を救う事です」と答えました。私は、チラシを配る時に、安心できず、色々な事が気にかかり、心は全然放下できず、純粋でない人がいるのを見て、すぐに「配るのが姪のように速くなかったのは、何も考えずに人を救う事ができなかったため」とわかりました。

 毎回、神韻DVDを配る時、私はいつも2日繰り上げて「発正念で場をきれいにする」ように、配りに行ける同修には伝えました。集合する市場によっては距離が40数キロあったことがあり、さらに、行き交うだけの人を考えに入れなくても、現地には幾千人もの人がいました。私たちは朝、家でグループ発正念し、縁のある衆生に待ってもらうように、そして、良くない生命には離れてもらうように、道でも発正念を継続しました。

 ある時など、私は衝撃を受けました。というのは、車を止めて大きな袋をかかえ市場に入ると、皆もう待てなくなり、「何を売っているのか」と尋ねたので、私は袋に入った神韻DVDを地面に置き、DVDを手に取って「これは全世界華人新年祝賀祭のDVDで、中国5千年の伝統文化を発揚する、世界一の秀作です。この芸術団は毎年、世界中を300回以上巡回公演しており、海外ではこのチケットは数百ドルで売られているものですが、今日は無料でプレゼントします・・・」と大声を上げて紹介しました。皆は内側に3層、外へ3層と私たちをとり囲み、我先にと、「一つくれ」と大きい声で言い、もらってからも出て行きたがりませんでした。それは、プロフィールのチラシが一枚足りないだけでも彼らは満足せず、私は手に取り、手渡せば、声を上げ・・・という繰り返しで、次々と人が殺到し、10分ほどの時間でいっぺんになくなりました。その日、私たちは同修4人で行き、600枚の神韻DVDを持っていきましたが、他の同修も配り方が速く、20分ほどで私たちはみな、配り終わりました。これまでの長い間で真相資料が足りなくなった事がなかったのですが、これからも来るのならその他のDVDもあわせて配らなければいけません。人々は何でも必要でした。種類が一つ少なくても満足せず、法輪功の物でしたら、一枚でも皆が親しみを持ちました。またこの事に触れておく必要があるでしょう。それは毎回、配るのを手伝ってくれる人がいて、その人は4、5箱を持って行っては配り終わると戻って来てまた箱を要求しました。

 2014年の卓上カレンダーを配ったのもやはりこの市場で、私は大きな袋を人が多い場所に置くと、「心を込めて『法輪大法は素晴らしい』と念じましょう! そうすれば、自然災害や人為的な災禍でも命が助かり、病気治療と健康保持に不思議な効き目があります! 今皆さんに、無償で2014年の卓上カレンダーをプレゼントしています。みなさんの新年が順調で思い通りになりますようにお祝いします!」と何度も声高らかに叫びました。私の両手は休む間もなく卓上カレンダーを袋から取り出していました。私の周りは人であふれかえっていました。しばらくすると100個以上の卓上カレンダーは人が殺到し一度になくなりました。忙しくしていると、徴収官の若者が「脇に寄ってくだい。これでは人通りに影響するではないですか、そうではないですか?」と、にこにこしながら言いました。私が頭を上げてその若者を見ると、若者はまだ笑っていて「そうでしょう?」と話しました。私は笑いながら少しずつ脇へずらしました。一年前にその若者はこの市場で神韻DVDを配っていた2人の同修を誣告(偽って訴える)し、そのために同修は今もまだ刑務所の中です。すでに衆生は覚醒しており、これは一つの局面ですが、大部分の場所で直接資料を配布するには、強い正念がなければなりません。何百人でも数千人でも、この場を制約できる正念があれば必ず、本当に安全なのです。

 2013年の下半期、パンフレットを誰も配っていないことに私は気づいていました。何人かの同修たちはお金を稼ぐのにとても忙しいようでした。私は焦り、近い所から遠いところまで隈なくパンフレットを配る事を協調する必要があると思い、先ず幾人かの同修と交流すると、同修はみな賛同しました。私たちは前もって輪タク(自転車タクシー)で道路の情況を探りに行き、どれくらいの家があり、いくつの通りがあるかなどを確かめ、何日か前から発正念して場を清め、人々が真相を知り、救われる事を妨げるすべての邪悪を一掃しました。私は帰って来て資料を準備し、すべての段取りが付けました。4人来れれば良いだろうと私は思っていましたが、その日の夜になると、8人の同修が来ました。この事は本当に予想外だったので、内心ひどく感動するとともに、すぐ自分の不足が見えました。それは、同修がパンフレットを配らない、というのは見当違いで、実はそれは私がパンフレットを用意しておらず、協調が良くなかったからでした。

 このようにして、私たちは経験から一番よい方法を探り続け、パンフレットを配る人を少なくして4人で行き、他の同修は家で同修が帰って来るまで発正念しました。また年末前には、新しい同修が加わってきました。その同修は各地の部落の道路状況を知っていたので、私たちが道を事前に確認する必要はなくなり、その同修に道案内してもらいました。年末、同修が忙しくない時は、私たちは一週間に2回出かけ、年明け後、忙しくなったら一週間に1回出かけました。このようにして半年の時間が経ち、電動バイクで行く事ができる所は一軒も落とさずひと通り回りました。それは大体このあたり40里の範囲でした。

 一度、同修は勢揃いしていたのですが、外は曇りで、雨が降るのが気がかりでした。私が見てみると、人員は揃っているので、パンフレットを配りに行くべきだと思い、それならと、同修と交流しました。私は発正念時に「竜神」と連絡を取り、雨の時間を後に延ばしてもらおうとしました。というのも、今は人を救う事は急務なので、竜神が私たちの情況に合わせてくれる事を希望しました。同修が出かける時になると、すでに月に優しい笑みが浮かんでいました。しばらくして同修が順調に配り終えて戻って来た時、とても嬉しそうな様子だったので、「私たちがどのくらいの事をしたとしても、人心を生み出すわけにはいかず、私たちは私たちがすべきことを静かにこなし、その事を表ざたにする事はせず、顕示してもいけない」という事を、私たちはお互いに注意し合いました。

 今、もう一組の同修がまだ配っており、さらに遠くの場所はオートバイに乗り換えて2人で配っており、真相資料は50×100里(1里は約4キロ)の範囲をカバーしました。配った所は同修がまたチェックするので、一冊のパンフレットさえ損失を受けませんでした。

 結び

 私たちの資料拠点が大陸のこの邪悪な環境下で、困難で紆余曲折の日々が多かったこの10年を通り過ぎる事ができ、無病息災だったのは、師父の御慈悲のおかげであり、また周りにいる同修の全員がとてもうまく力を合わせた事のおかげでした。こうして私たちのチームワークは難攻不落なものになったのです。トラブルに巻き込まれた時、内に向けて探し自分を修煉する事を皆は知っています。私たちには、長期的に解決のできない関のために起きるわだかまりはなく、さらに多くの自己への執着もありません。私たちは、事に当たっては、みんな正念で積極的に息をぴったり合わせ、全体で向上し、全体で昇華していく事に対処できます。そして私たちは手を取り合う事ができるので、正しい念と正しい行いで師父の救い済度のご恩に報い、もっと多くの衆生を救い済度いたします。

 ありがとうございます、師父!

 ありがとうございます、同修の皆さん!

 注:
 [1] 李洪志師父の書籍:『精進要旨二』「大法弟子の正念は威力あるものである」
 [2] 李洪志師父の経文:『北米での巡回説法』

 (明慧ネット第11回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/11/16/299632.html)
 
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