天目で見た 真相資料が捨てられる原因
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文/洪願

 【明慧日本2014年10月28日】真相資料を拒絶されたり捨てられたりすると、大法弟子の心を痛めるだけでなく、大法のイメージもそれによってダメージを受ける恐れがあります。真相資料は原稿を書くことから、校正、編集、制作を経て、最後に学習者は大変な危険を冒して配りに行き、どれだけの心血が注がれているのでしょうか?!

 以前、真相資料が捨てられることについて、私は「仕方がない」と残念に思うだけでした。しかし先日、天目に一連の光景が現れて、真相資料が受け取られない深層の原因が見えました。それを書き出して、同修の皆さんと交流したいと思います。不適切なところがあれば皆さんのご指摘を歓迎します。

 師父は『精進要旨』「再認識」で、「実は、皆さんが乗り越える関はほかでもなく、皆さんの魔性を取り去っているのです! しかし、皆さんはその都度各種の口実をもって、あるいは大法をもってそれを覆い隠し、心性を向上させることができず、機会をその度に逸しています。
 皆さん、ご存知ですか? あなたが修煉者でありさえすれば、いかなる環境、いかなる状況下でも、遭遇したいかなる厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法の仕事のためであっても、皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させ、それを取り去っているのです。皆さんの向上こそが、最も重要だからです。
 真にこのように向上することができるのであれば、皆さんが純粋で浄らかな心の状態の下で行なうことこそ、最も良いことで、最も神聖なのです」

 真相資料に関わる各担当の学習者たちが、上記の法理に対してどれほど悟れるか、どれほどやり遂げられるか、どれほどその法理に同化したかが、真相資料が最終的に常人に受け入れられるかどうか、役に立てられるかどうかを大きく左右しています。

 一、作る人の心理状態が最も主要な原因

 私が天目で最初に見た光景は、真相資料制作者のそれぞれの心理状態です。心が清浄でなく、考え方が法理から離れている人がいれば、ネットゲームで遊ぶ人もいて、歌を歌いながら私事を考える人がいれば、自分の病気を心配して、真相資料を多く作れば病気が早く治ると考える人もいて、トラブルに遭って内に向けて探さずに常人の方法で対処しようと考える人がいれば、腹が立って心で愚痴を言う人もいます……つまり、真相資料を作ることを常人の仕事として考えており、修煉としてみなしていません。そのように資料を作ると、邪悪に隙に乗じられる恐れが大きく、不良品が出やすく、機械も故障が起きやすいのです。不良品を取り除いて完成品を配っても、引き続き邪悪に隙に乗じられて、常人に捨てられることが多いのです。

 資料を作る時、清浄でない心境、不平不満、および他の良くない念はみな物質そのものなので、資料の表面にずっと付いていきます。邪悪はそれを理由にして衆生に真相を見させません。常人はそのような資料を手に取っても読まず、ひいては軽蔑します。一方、衆生を救い済度するという純粋な心をもって資料を作れば、資料の表面にもその純粋な物質が付いているため、邪悪は見るだけでも恐れて近づけず、そのような資料は常人に喜んで受け入れられます。

 二、配る人の心理状態は中国では二の次の原因だが、海外では軽視できない

 中国では、資料を配ることに大きな危険が付随するため、あまり高く要求できませんが、配る時の心理状態が良ければ、常人が読むと効果がさらに良くなります。そうすると、資料制作者の不足を補うことにもなります。配る人の善と慈悲の心理状態はその場で常人を感動させ、彼を救うことができ、常人は喜んで資料を受け取って帰ります。

 一方、常人を救えるかどうかを配る人だけに押し付けてはいけません。直接自分の手で資料を常人に渡せない時もあり、常人は受け取って帰ったら、彼を救うのは資料の内容自身なので、資料を書く、編集する人の心理状態が重要であることを、私達は忘れてはいけません。

 三、編集者の心理状態

 以前、編集の仕事が資料を捨てられるかどうかに影響するとは思わなかったので、先日、天目で見た光景の中で、この仕事も軽視できないと分かりました。

 学習者は自分で草稿を編集する時、誰もが純粋かつ清浄な心で作業しています。しかし、数人が共同作業をする場合では、法に則っていない状態が現れる人がいます。自分の考えが正しい、自分のやり方が良いと思う人がいて、耳に障るような意見を聞き入れられず、聞いても内に向けて探すのではなく、まず排斥して、理由を探して弁解します。耳障りな意見を妨害だとみなし、法に対して責任を負っているためだと言い訳をします。ひどい場合は延々と口論して、互いに排斥し、互いに隔たりが生じ、甚だしきに至っては…。

 そのように編集された真相資料に良くない心、良くない物質がすべて付いていて、肉眼では見えませんが、敏感な人は資料を手に取ったらなんとなく気分が悪くなります。旧勢力はその良くない物質をさらに増強させて、彼に資料を読みたくないようにさせ、最後に捨てさせます。

 一部の編集者は長期にわたりそれを重視せず、編集の仕事を修煉として見なしていません。また、知り合いから資料について褒められると、編集する中でますます着実に自分を修めることを忘れ、資料に対する意見や指摘を妨害だとみなし、聞き入れられなくなります。そのような心理状態で編集した資料は、常人は受け取らず、見ず、見る興味がない場合が多いのです。

 真相資料が衆生を救えたら、編集者にも功労があります。一方、真相資料が捨てられると、もしも上述の原因が存在すれば、編集者にも一部の責任があります。

 四、文章を書いた原稿作者の心理状態

 法器として大法を実証する時に使うために、師父が大きい筆をくださったとか、前世に自分は著名な作家だったとか、このような修煉体験文章が多くあります。しかし、師父から頂いた筆を使って素敵な文章を書きましたか? かつて人類の文学史に名を残した偉大な作家だった同修は、今日、当時のレベルに達していますか? 多くは達していないでしょう。

 文章を書く時に作者一人のレベルと知恵はさすがに限界があり、同修が助言をしてくれる時、意見交換と言い合いは避けられないものです。同修の意見も完璧とは限りませんが、肝心なのは、この時の作者の心理状態です。意見を聞いた瞬間の第一念は何ですか? 後で討論した事を内に向けて探すことができますか? 指摘された以上、きっと自分の文章に不足があると思い、どのように修正して良くするかを考えるのか、それとも自我を固守してどのように弁解するかを考えますか? ひいては相手の発言に腹が立ったので、相手の態度や話し方の不足を探して非難しますか?

 古来より、文人は才能がある割りにプライドも高くて、多少「文人は互いに軽蔑する」気風があります。意見を聞いたら、多くの場合すぐに言い返します。しかし、修煉者としてそのような心理状態で、たとえ自分の文章を完璧に訂正したとしても、字の中、行間すべてが自我の要素を強く帯びていると思います。文章は直されたのですが、心理状態が直されていないためです。

 実は、同修が文章を指摘してくれることは、師父が按排してくださった、最も早く向上できる絶好の向上の機会です。法に基づいて問題を指摘し、皆が互いに内に向けて探せば、このような協調のもとで、作品は予想以上に良く仕上がります。心性の向上につれて、作品のレベルも向上し、法を実証する道で正しく歩めば、先天的な能力がだんだん現れてくることができます。

 読者を感動させたのは、華麗な文才ではなく、質素な言葉に含まれる、清浄で誠実な心です。ですから、作者の心理状態は最も肝心な要素です。

 また、もう一つの極端な状態は、文章の不足が見つかっても何も言わず、和気あいあいとしているようですが、大法の法理に符合しないと思います。そのように放任した結果、資料の質が低下して常人に指摘される結末になります。

 とてもよくできた真相資料もあって、常人は争って読んでいます。しかし、そこに止まってはならず、その中にもやはり不足があり、主に心理状態の不足です。もし皆が自分の担当する仕事を良くやり遂げて、その仕事を修煉として見なし、常に清浄な心理状態で行うと、他の担当者の不足を補うこともできます。もしもすべての担当者が修煉者のあるべき心理状態でやり遂げれば、それはつまり最も良い全体の協調が実現できます。資料もより大きな作用を果たすことができ、衆生を救うことに新しい局面が打開されます。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/10/16/299009.html)
 
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