比べる心の危険性
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年5月14日】私は同修の間に、普遍的な人心が存在することに気がつきました。それは「比べる心」です。いつも心の中で、自分とほかの同修の修煉状態を比べたり、あるいは、ある同修と地元のほかの同修のことを比べたりしていました。しかも、こればかりを見ていました。

 比べた結果、自分は同修に及ばないと感じた時、嫉妬心が生じます。そのせいで、法を実証するとき、協力したくない人や、裏で足を引っ張る人もいます。さらにひどい場合はグループを作り、全体を分裂させるようなこともやります。また、時には自分がコンプレックスを感じ、気持ちが落ち込んだり、自信が持てません。時には、焦る心も生じ、自分は人より遅れていると感じたり、焦る気持ちで人を追いかけたりします。物事を極端に行ったり、物事を行う量を追求したり、物事を行うことを、多かれ少なかれ修煉の基準だと思い込んでいます。それを邪悪が見逃すわけもなく、結局隙に乗じられ迫害を受けました。

 自分は同修より優れていると思い込んだとき、歓喜心が生じ、人と比べて喜びます。時には、自己満足の心が湧いてきて、自分はよく修煉出来ていると思い込んだり、自分の修煉状態に満足したり、いつも偉そうな態度を取ったりします。そしてだんだん自分を緩め、積極的に上の次元を目指すよう自分に要求しなくなります。このような時も、安逸を求めやすくなり、のんびりしたいなどと思います。時には独りよがりな心が生じ、自分が他の人よりすごいと感じ、お高くとまるような感覚に陥ります。そして、それが高じると自我が膨張して驕り高ぶり、師を欺き法を乱してしまいます。

 また、ある同修を他の多数の同修と比べた時、もしこの同修の修煉状態が他の同修よりずいぶん良いと思い込んだとき、往々にして「崇拝する心」が生じやすくなります。だんだんと人に学ぶようになり、法を学ばなくなります。そして同修を自分の模範としてしまいます。崇拝される同修も往々にして自我が膨張してしまい、結局、皆、邪悪に迫害されてしまいます。そして、ある同修の修煉状態が他の同修より良くないと思い込んだ時、同修の欠点と短所ばかりが見えるようになって、ますます気に入らなくなり、相手は修煉者ではないと思い込んだり、同修のことを軽蔑したり、無視したり、排斥したり、さらに同修を魔とみなしたりして、大法弟子の中で、排除したりします。

 「比べる心」を作り出している主な原因は、法理がはっきりしていないことです。師父は「法を学びて法を得る 比して学び比して修す 事々対照し 做すところ到るは是れ修なり」[1]と説かれました。また「師父はそうした人は古くからの弟子の中にもいます。しかも、最もよく見られることは、彼らはいつも人間と比べ、彼ら自身の過去と比べていますが、各次元での法の要求に基づいて自らを量ることができていないのです」[2]と説きました。

 私は修煉者として法に基づいて修煉し、人と比べないようにするべきだと思います。師父が「比して学び比して修す」[1]と説かれた意味は、私の個人的な理解では、人の良いところと足りないところに拘わらず、内に向けて探したり、人心を取り除いたりする中で、自分が大法の中でさらに精進します。もし私達が法を唯一の基準として、自分の行為を律すれば、無限な大法の前では、すべての命はなんと小さいことか、分かるはずです。そして、慈悲になり理性的に衆生を救い済度します。お互いに協力し、しっかり三つのことができるようになります。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『洪吟』「実修」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「時間との対話」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/12/28/267013.html)
 
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