【明慧日本2016年11月14日】
慈悲なる師父、こんにちは! 同修の皆さん、こんにちは!
第13回中国大陸大法弟子法会の機会をお借りして、修煉の道で師父と大法を信じ、どのようにして一つ一つの難関を乗り越えたかの体験を師父にご報告し、同修と交流したいと思います。
中国共産党の迫害により、家庭が破壊され家族を失う
私は田舎の大法弟子です。私たち夫婦2人とも、1999年の弾圧の前に法輪功の修煉を始めました。共産党が法輪功への迫害を始めてから、私の家庭は迫害により破壊され、家族も亡くなりました。2009年までおよそ10年が過ぎ、少しずつ状況が変わってきました。
夫は洗脳班や、労働教養所、刑務所などに不当に何回も拘禁されました。また地元の政府や警官に拘禁されたこともあり、その後、各地をさまようようになりました。
迫害が始まって、2人の子供(娘15歳、息子9歳)も各地をさまよう生活が始まりました。最初は80歳代の夫の両親と一緒に生活しました。夫の両親は私達のことを心配し、2人の子供の面倒を見ていましたが、最後には心を痛めながら亡くなりました。その後2人の子供は私の80歳代の両親と一緒に生活しました。
私達夫婦は拘禁されていましたので、収入がなくなり、子供の学費の大部分は同修や親戚などに頼っていました。息子が高校に通っているとき、無料でご飯を食べられるため、食堂を手伝っていました。しかし、手伝い終えると、いつも授業の時間になり、食べる時間がなくなっていました。手伝う時に、服が汚れましたが、仕方なくそのまま授業を受けに行きました。娘は大学に通っているとき、生活費を賄うため、アルバイトや家庭教師をしていました。
迫害を否定して、家に帰る
2009年に夫は懲役4年の刑を終えました。その時私は共産党に指名手配され、各地をさまよっていました。夫は私と一緒にさまよう生活をするか、家に帰って正常な生活をして学法・煉功、真相を伝え、発正念の三つのことをきちんとやるか、二つの選択肢のどちらにするかなかなか決められませんでした。
私はよく法を勉強して、師父に正念を加持していただくようお願いしました。『轉法輪』に書かれた「つまり虫がいるからといって、われわれは風呂にも入らないというわけにはいかないのです。蚊がいるからといって、われわれは他の所を探して住むわけにもいきません」[3]を読む時、私は共産党に指名手配されているからといって、各地をさまよう生活をすることは正しくないと悟りました。師父を信じ法を信じ、師父が段取りされた按排に従い、正々堂々と家で生活し修煉して法を実証することにしました。。
正念が出てきたら、体がすっきりとして、雑念もすべて消え、家に帰ることを決めました。同修は心配してくれました。しかし私は自分が決めたことが正しいと信じて、共産党の敏感日である4.25に久しぶりに家に帰りました。
家に帰ると、荒れた光景が目の前に現れました。庭の雑草は人の高さになっていました。部屋のドアを開くと、天井がボロボロになって空も見えました。壁にも蜘蛛の巣があちこちにありました。ねずみの巣もありました。生活用品や農具はほとんどなくなっていました。水道も水が出なくなっており、地下の水道管も破れていました。この状況を見ると私の人心がどんどん出てきました。しかし、私は必ずこういうことに直面し前に向かって師父が按排してくださった道を歩まなければなりません。師父が私たちのために背負ってくださっているものは永遠に想像もできません。目の前の難儀はそれにくらべれば何でもないのです。師父がおられ法があれば、どんな困難も乗り越えることができます。師父の加持をいただき私は心を静めて、家を片付けながら三つのことをしっかりとやっていきました。
師父のご加護により、状況はよい方向へ
8月7日、夫が刑務所から帰って来ました。体は弱っていましたが、精神状態はとても良かったのです。夫は時間を無駄にしないように学法と煉功をしっかり行い、体はすぐに回復しました。私たちは貧しい状況に直面しましたが、旧勢力と共産党による経済面での迫害を否定し、頑張って経済状況と生活を改善し、大法の素晴らしさを実証して、世の人々が持っている大法へのマイナスのイメージを変えたいと思いました。
1999年7.20前に私たちは小さな店を経営していました。場所がよかったことと、私たちが良心的に経営していたので店は人気がよかったのです。私と夫が迫害されたため、店の経営は親族に任せました。もう10年になりましたが、経営権を返してもらい、夫婦で経営しようと思いました。
店の経営状況は以前のように良く、月に数千元の収入がありました。1年分の生活費を除き、息子の学校のために借りたお金をすべて返し、残りは4、5万元ほどになりました。これは師父の慈悲だということがわかりました。私たちを貧しい状況から抜け出させ、正常な生活を過ごせるようにしてくださいました。
利益を求める心を取り除き、三つのことをしっかり行う
その時新しい問題が出てきました。私たちは商売のため忙しくて学法の時間も発正念の時間も少なくなりました。限りある時間を使って学法や発正念を行う時、心を静めることができなくなっていました。法輪功の資料を配って人を救うこともやっていましたが、力が足りないと感じ、十分な時間も保証できないので心は大変苦しく感じました。
ある日、私は水道のある場所に水を汲みに行く時(村で決まった時間に提供される)、蛇口を開いた時は、水流がとても強かったので、蛇口を閉じて他のことをしにいきました。しばらく経って蛇口を開くと水流が強かったのですが、半分くらいで急に止まってその日の水はなくなってしまいました。水がなければ多くのことができないので、私は大変後悔しました。
振り返ってみると、私の修煉の状況と同じようでした。毎日お金を儲けるために忙しくしており、三つのことをやる時間がなくなりました。師父は大法弟子が人を救うために、巨大なことに耐えて時間を延ばしてくださいました。私たちは何のために忙しくしているのでしょうか? このままでは大法弟子の称号にふさわしくありません。もし法を正すことが終わりになって、水道の水と同じように急に止まってしまったら、その時の後悔や絶望はどういうものになるでしょうか? 商売が繁盛し、収入がたくさんあることはよいことですが、三つのことに影響すれば調整すべきです。そうしなければ、救うべき衆生が救われなくなり、誓約が果たせなければ、私は法を正す時期の大法弟子になれるでしょうか?
私は自分が悟ったことを夫と交流して、店をやめようと話しました。夫は当時、そのことに同意しませんでした。彼は極端なことを行わないように考えて、もし常人から理解されなければ、同じように大法にマイナスの影響を与えると言いました。私は同修とも交流しましたが、同修も夫の考え方と同じでした。
夫と同修の異なる認識と親戚の理解が得られないことに直面し、私は心が重くなりました。お金を儲けることは良いことですが、三つのことをしっかり行ないませんでした。四つの発正念の時間も保証できませんでした。同修達はしっかりと修煉の道を歩んでいますが、私はお金のために忙しくてしていました。自分の修煉を緩めてはいけないと思います。師父は「職場で、あるいは社会で評判が悪くても本当に悪い人とは限らず、逆に評判が良くても、必ずしも本当に良い人とは限りません」[3]を思い出しました。正しい道を歩めば生活できないはずはなく、必ず良くなると思いました。師父の按排された道を歩むことこそ最も正しいのです。
各方面からの抵抗力に直面した私は、プラスの面があれば必ずマイナスの面も出てくると悟りました。私の心は動かず、もう一度夫と交流しました。やっと法理の面で認識を合わせることができました。店を売って今の忙しい状態から抜け出すことに決めました。
店を売ることを決めてから村の人たちに知らせると、すぐに店を買う人が現れました。とても順調だったので、私たちに精進の心があるため、師父が按排してくださったのだと思いました。
たった2年で私たちは約20万元を儲けました。2013年、新しい住宅を建て、残りのお金で車を買い、農業用の三輪車も買って、夫は新しい仕事を始めました。新しい仕事は、自分の車で朝晩学生を送り迎えすることでした。時間をあまり使わず、収入も良く、残りの時間を無駄にしないでしっかりと三つのことをするようになりました。夫はよく車で同修を連れて市場やお祭り、あるいは遠くの村に行き、法輪功の資料を配ったり、真相を伝えたり、三退を勧めています。
これらことはすべて師父が按排してくださったのです。師父がおっしゃったとおりに「修は己にありて、功は師にあり」[3] でした。
観念を変え邪悪を粉砕する
2011年に娘が結婚することになり、相手の家族が結納金はどのくらい必要ですかと聞いてきました。私と夫は、常人から見た私たちの姿やすべての言動は大法弟子の姿を代表していると思っています。これは娘を嫁がせることであり、売ることではありません。常人なら十数万元、数十万元欲しいと言うのがあたりまえですが、私たちは師父のおっしゃった「世の墜落を截窒る」[4] の通りに行うべきです。
私たちは相手の家族に「結納金はいりません。何の条件もありません」と話しました。これで世の人々に大法の修煉者が、常人とは異なっていることを見せることができました。
2014年に息子が結婚する時、相手の家族も結納金はいらないと言い、さらに住宅や車などの条件も出してきませんでした。息子が花嫁を迎える時、天国楽団が演奏した「法輪大法好」の曲を流しました。すべてのことが順調に行われました。これも慈悲な師父が護ってくださった結果だと思います。
正念をもって正く行い、労働教養の迫害を否定する
私はかつて不当に2回労働教養を科されたことがあります。私はここで労働教養の迫害を否定し、正念をもって同所から出てきた体験を話します。労働教養所の重労働は、息ができないほど辛いものでした。毎日夜まで働かされ、さらには徹夜しても終わらない仕事量でした。終わらなければ寝かせてもらえませんでした。ある日、私は師父が説かれた「たとえどのような環境にあっても、邪悪の要求や命令、指図には従わないようにしてください」[1]を思い出し、このような迫害の中の迫害を認めないと決めました。
その日から、誰かが作業を終えて部屋に戻って寝る時に、私も部屋に戻って寝るようにしました。私を監視する受刑者は「おまえは分担された仕事が終わっていないのでまだ寝るな」と言いながら私を掴んで警官を呼びました。警官は「おまえは仕事を終えたのか?」と聞き、私は「私の仕事ではない。私は迫害さているだけです」と答えました。警官は「仕事を終えないと刑期を延長するぞ」と言いました。私は「そもそも私に対してしたことは、すべて違法なことです。延長するのも迫害です」と答えました。
私の意思が固いのを見て、警官は仕方なく戻りました。その時から私に仕事のことを一度も話したことはありません。
労働教養の期間中、私は2人の受刑者に24時間監視されていました。受刑者同士は「あとどのくらいで出られるか」とよく話していました。私が釈放されるのは、一番遅いとよく言われていました。私は「私の認識はあなた達と違います。早く出ていくかもしれません」と話しましたが、彼らは不可能だと思っていました。しかし、しばらく経ってから私は釈放されました。師父は「大法弟子の正念は威力あるものである」[1]と説かれました。
2003年、私はもう1人の同修と一緒に労働教養所で2年拘禁されました。その前に、地元の刑務所で2カ月くらい拘禁されたことがあり、その時私は、師父の『普く照らす』[ 4] を暗記していたので、旧勢力をすべて否定するという法理がわかっていました。労働教養所は、私を転向させるために様々な方法を使いましたが、結局失敗しました。仕方なく私を転向させるため、石家荘女子労働教養所に送りました。
その場所は極めて邪悪でしたが、私は彼らのいかなる命令や指示も認めませんでした。どんな邪悪手段をもってしても、私の師を信じる心、法を信じる心は動じませんでした。5日後、私は迫害によって重い病の状態が現れました。労働教養所は責任を負うことを怖れ、私の家族に電話をかけて、病気を治療するためのお金を要求しました。家族が彼らの要求に応じなかったので、彼らは仕方なく家族に私を家に連れて帰るように電話しました。
家族がやって来ると彼らは「5日間の仮釈放」と書いてある用紙を渡しました。このように私は家に帰ることができました。3日経ったころ、同修は私に「早く隠れてください」と勧めました。親戚も私のことを心配していました。しかし、私はすでに邪悪の本質をはっきりと分かっており、彼らのことを認めていません。私には師父がおられ、危険な時に、頭の中のすべては師父と大法です。師父は「弟子正念足りれば 師は回天の力有り」[2]と説かれました。私はどこにもいかないと、親戚の家で労働教養所の用紙を破りました。その後、労働教養所から1回も電話や人は来ませんでした。
2年間の労働教養を下されましたが、8カ月くらいで教養所から出てきました。これはすべて師父の法、特に暗記していた『米国法会での説法』の指導のおかげで、私は悪魔の巣から正念を持って出てくることができました。
註:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「大法弟子の正念は威力あるものである」
[2] 李洪志師父の著作:『洪吟二』「師徒の恩」
[3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[4] 李洪志師父の著作:『洪吟二』「普く照らす」
(明慧ネット第13回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)