一人の仙人から見た大法弟子(三)
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文/善縁

 【明慧日本2015年5月9日】(作者前言)この文は同修の参考になるものですが、根本的には法を師としてくだい。私たちは他人が法を実証し、よい事を行うことを断れません。他人が大法弟子の不足を指摘してくれたら、われわれは法に照らして、内に向けて探し、自分を正して、深く「師を信じない、法を信じない」根源を掘り出さなければなりません。

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 (前文に続く

 もう一つずっと心配していることがあります。それは、天目が開いた同修の中で次元を落とし、台無しになった人があまり多いことです。これはなぜでしょうか、私自身のことも気になって、この仙人と交流しました。

 彼の話の大体の意味ですが、本当に真心で師を信じ法を信じたら、この問題が現れるでしょうか? 初めから、法を疑う心を抱え、根基がしっかりしていなかったので、問題が表れると法で自分を正すのではなく、だんだんと幻像を信じ、法を信じなくなったのです。少なくない人が、自分がかつて歴史上の有名人だったと思い、だから自分が聡明だと思っています。実は見えたものは往々にして間違っています。知恵は歴史上の人物から来たものではなく、なお更幻像から来たものでもなく、修煉者の知恵は正法を修煉する中から由来したものです。ひそかに満足の心が生じれば、大きな厄介事を起こします。最後に自分の心より魔が生じてしまい、ますますひどくなり、自ら抜け出すことができなくなるまでに至ります。

 これは師父が彼の口を借りて私たちの不足を教えてくださっていると、私は悟りました。当初、私は大法を完全に信じていませんでしたが、僅かな功能が出ました。つまり私は功能が出たおかげで、師を信じ法を信じるようになり、成就できるようになり、功能がなくても固く信じることができ、悟りに頼って円満できる人と比べると、師を信じ法を信じる基礎の基礎において、すでに大きな差がついています。これは本当に喜ぶ価値もなく、なお更、自我を膨張させてはなりません。天目が開いた当初、私が好奇心や歓喜心を取り除いたから、大法を固く信じることによって、多くの幻像の誘惑を乗り越えてきました。一部の天目が開いた同修について、私から見ると、歓喜心が少しでも残っていれば、幻像はなくなりません。ある同修は自分が見た歴史事件について書きましたが、それは小説の虚構には合っていましたが、現実の歴史とは反対になっていました。これは実に危険なことで、このような自分の心より魔が生じた要素が入った文章は、読者に影響を与えてしまいませんか? 誰が喜びますか? もし自分にも喜び満足する考えがあれば、ちょうど妨害を加えた魔が喜びます。見た幻像の真否を大法で量らず、現実から離れ幻像を信じて、最後に大法を信じなくなった同修がいます。自我の膨張が魔により少しずつ大きくされたもので、人にお世辞を言う人にも問題があります。好奇心、歓喜心、自我の心は必ず取り除かなければなりません。

 師父は「自分のことをいったいなんだと思っているのですか。佛教においても、このことは強く忌避されているのです」[1]と説かれました。この法を深く理解して、やり遂げなければなりません。

 彼の話では(大体の意味)、一部の人はただ大法の一部だけを信じますが、どの部分を信じないでしょうか? 自分が出来ない部分を信じないのです、大法を信じるにも自我を中心においています。多くの人は「病」に関する部分を信じず、ここ部分の法の威力が彼に現われないので、彼は更に信じなくなります。このような人は常人の中の強者が多く、修煉において実は悟性の劣るほうに属しますが、ただ本人は優れていると思っています。何かを協調するとき、自分がいかに有能であるか、いかに精進しているか、固く堅持しているかを表現し、甚だしい場合、忙しくて法を勉強し煉功する時間もありません。しかし、人がいなくなると、時間があっても確実に修煉するのではなく、常人の生活を過ごすのです。誰にも言わせず、触らせず、自分を死に追いやるあれらの執着を必死に守っています。しかし、神には非常に軽蔑されます。

 ここで『精進要旨』の中の「時間との対話」を思い出しました。「神: 彼らの中には、彼ら自身が良いと思う法の一面を求めに来た人がいますが、かえって彼ら自身は、法のすべてを認識できなくしている他の一面を放下できずにいます。」[2] 以前、読み通しても気にしなかったのですが、まさにここにも問題があるとは思いませんでした。

 その後、ミラレパの修煉の話を思いつきました。彼には疑惑がありましたが、師父を疑うことは一度もなく、彼の師父がわざと次から次へと彼をいじめても、師父と法に少しの邪念も生じず、ただただ自分のどこが師父の要求を満たしていないかを探して、せいぜい自分の不能を疑うだけで、このように師を信じ法を信じたことこそ、彼が一世で佛を成就できた保証です。

 一部の同修は、自我中心で、何があったらすぐ大法を疑います。あるとても有名な同修がいます。最後に病業の関を乗り越えられず、病院でこっそりと「この法が本当なのか嘘なのか? 私はずっと疑いました。今から見ると、やはりだめですね」と言いました。しかし、私は大法がすでに彼の生命を延長したのが見えました。しかし彼の心は疑惑で溢れて、ついに我慢できなくなって自ら言い出しました。それから何を言っても耳に入らなくなりました。彼は自分が大法のために大きな苦を嘗めて、たくさん代価を支払ったから、師父は彼を特別扱いして見守るべきで、自分が真に修煉しなくても彼の病気を取り除くべきだと思っています。これは師父と取引しようとしており、修煉したくないが、特別に扱われたいのです。彼は常人の執着と疑惑を抱いて放下せず、同修たちに正念を発してもらう一方、命を守るために病院へ行きました。結局翌日に亡くなりました。すべての病院へ行ってみたいと思う人は、僅かな念であっても、常人のものを求めることになるので、常人の次元の法の制限を受けなければなりません。

 彼はもう一つの状況も話しました。大体の意味ですが、一部の大法弟子は非常に固く信じていて、本当に誓約を実行しており、大法のために真心からすべてを捧げています。しかし、人間の方法で必死に消耗しており、法の勉強と煉功もやらずに、ただただ頑張っています。実はこれも法から知恵を与えられることと、確実に修煉すれば遠回りを防ぎ、少なくできることを信じていないのです。むやみに人間の方法でやれば、人間の次元の法を求めることになります。それで年の割には老けたり、過労死するなど、常人の規律に制限されます。大法の仕事をすれば保険をかけているように思う人もいます。師父が関を乗り越えるのを手伝ってくださると固く信じてはいますが、長期にわたり自分を修めません。これが危険かどうか、言わなくても誰でも分かります。

 私の周りにもこのような固く堅持し、全力を費やしている同修がいます。また私自身にも今、少し問題があると気づきました。自分は法を固く信じていると思っていましたが、実はまだ差があり、少なくとも全てを完全に信じているのではありませんでした。師父は「実は私はずっと言っていますが、修煉は大法の仕事をすることに影響しないのです。これは間違いのないことです。なぜならば、煉功は疲労を解消し、身体を速やかに回復させる最も良い方法だからです」[3]と説かれました。

 例えば、大法の仕事をして疲れて、怠けて煉功をせず、睡眠で体力を回復させます。煉功で疲労を解消できることを自分ができるのかということ、大法がこの面での威力を現わしてくれることをあまり信じないから、やらないのです。実はこの面で修めていないことになります。結果、常人の疲労と疲れの状態が現われてきます。煉功を堅持できた時、本当に疲れません。しかし振り返って考えることをせず、根源を探していません。根源はやはり、この法を深く理解していないため、この面において固く信じることができないからです。

 ある二人の同修が、刑務所から出てきた時、二人とも迫害により重い病業をかかりました。二人ともこのことを気にしなかったのですが、結果はかえって完全に違いました。一人は末期癌の状態に入り、刑務所の管理部門は家族に葬式費用を賠償して、代わりに彼らを訴えないように求めました。しかし、この同修が法の勉強と煉功を堅持し続け、一カ月で完全に快復しました。数年来、元気で、正々堂々と三つのことをやっています。刑務所の管理部門はこの奇跡を見て、それから迫害しに来なくなりました。もう一人の同修は、危機に陥っていても気にせず、真相を伝え続けましたが、法の勉強と煉功がとても少なかったのです。私に分かりますが、彼は煉功することに少々自信が足りなかったのです。真相を伝える方が、師父がもっと守ってくださると思って、やはり少しの念が病業にあって、このように「精進」することによって、師父に病業を解決していただきたいという念が多少ありました。しかもずっと怒りっぽく、同修が何回「魔性に操られるのはいけない」と注意しても、彼は覆い隠しました。三年間延ばされて亡くなりました。「重症、大きな病気」を抱えて治療せず、三年を延ばすことができたのはすでに奇跡です。しかし、彼は自分を正さず、亡くなったのは本当に惜しいです。

 師父は「歴史上約束をしたとしても、今日正念が十分であり、それを認めず、それを受け入れなければ、それを否定することができます。しかし、このような場合の人は少し難しいのです。難しいのは、旧勢力があなたを簡単に手放さないところにあります。旧勢力はあなたの隙に付け入ろうとしており、あなたに少しの油断があれば、付け入られてしまいます」[4]と説かれました。

 この法を深く理解できなければ、修煉の厳粛性を認識できなければ、いつも自分を修めなくても気にしなくなりがちです。隙に乗じられ、怒りっぽいことは、その典型的な表れで、まだ危険性が分からなければ、危険の中にいます。

 最後にこの仙人が言いました(大体の意味)。これら放下できない心が、もし彼(仙人)に一つでもあれば、1700数年前すでに死んでしまいました。もしこの長い歳月の中で、一つこのような心が生じたら、落ちてしまって、亡くなったはずです。これらを話すのも汚染されるので、(信じる信じないにかかわらず)聞くだけ聞いておいてください。

 少なくない同修を見てきて、病業の関を乗り越えないため、命を守るために病院に行きましたが、最後には誰も命を守れませんでした。常人の生死と寿命は定められたものだから、不治の病の病業が現われた時、すでに常人の寿命に達した可能性が高いので、この時病院へ行って命を守ることができますか?

 周囲の少なくない同修は長期にわたり、法の勉強と煉功は形式を踏んでいるだけになり、真に自分を変えず、法を勉強しても大法をもって心のしこりを解くことができず、常人の昔の古臭くつまらないことを心の中に溜め込んで、何かに遭ったらすぐこれらの心が現われてきます。かえって人心でこれらの心を強化して、自分を探しても表面に留まり、無理にこらえて隠し、修めても表面に留まっています。法を勉強する時はとても穏やかですが、本を置くと、言動についつい常人の執着を帯びてきます…。他人の法に基づいていない言動を見かけたら、内に向けて自分を探します。これで、修煉の中に現われてくる執着がみな命を奪い取る刺殺者であることを認識できます。厳格に大法の基準で自分を要求できず、できるだけ速く一つ一つの執着を取り除かずに溜めておくと、乗り越えられない生死に関わる大きな関になります。

 実は多くの損失は防ぐことができ、多くの同修の死も本来挽回できます。修煉の途中で疑問があるのは正常ですが、最後までに留めてはならず、心の扉を開いて、交流の中で必ず向上し、法の中で疑問を解決しなければなりません。執着する自我を放下すれば、先天の本当の自分に近づいていくことができ、先天の自分の本性の境界は無私無我です。

 以上は個人の心得で、不当なところはご指摘願います。ここで天目を開いた同修に注意しておきたいのですが、もし入定の中で何かの地上道、神仙を見かけたら、本当に好奇心や歓喜心を起こさないでください。何といっても大法の要求に従って行なって、無視してください。好奇心で相手にすると、すぐ妨害され功が乱れてしまいます。もし私が現実生活の中でこの地上道に出会うのでなかったら、彼のいかなる話も相手にすることはありませんでした。不二法門の厳粛性を必ずよく覚えておいてください。何もかも大法の中で正されなければ未来がありません。

 (完)

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「時間との対話」
 [3] 李洪志師父の経文:『各地での説法四』「二〇〇三年アトランタ法会での説法」
 [4] 李洪志師父の経文:『各地での説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/4/8/307165.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/4/22/149841.html)
 
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