【明慧日本2015年6 月14日】ある同修は長い間執着を放下せず、注意しても聞かないのを見て、私は心の中で焦り、「同修は大法のためにあんなにたくさんの事をして、たくさん衆生を救ったというのに、最終的に常人のように福を得るだけではだめだ」と思っていました。
その後分かったのですが、同修は私の言葉を気にかけなかったばかりか、逆に陰で私に腹を立てて、他の同修に私を懲らしめるように言っていたようです。このことを聞いて私は何日も気持ちがスッキリしませんでした。「悔しさ」、「後悔」、「善意がかえって仇になった」などの心が出てきました。その後、思想の中で次々に法にふさわしくない同修のさまざまな場面が浮かぶと同時に、陰で他の同修に私の悪口を言っているところや、更にどうやって彼らと闘うかも浮かび上がりました。こういう考えが出てきた瞬間、私は自分でもびっくりしました。この時になって私はようやく、同修が他の人に何か注意されたくないとか、何か言われるとすぐに爆発してしまうのではなくて、人に言われたくない、人に言われてはならない、という強い執着があるのは自分ではないかという事に気づきました。こういう執着はいつも他の人の欠点と不足を見て、他人の過失や恨みを心に刻み、心が狭く、我慢ができない上に、自分が他の人よりも優れているという考えがあり、もっとひどい場合には「あなた達は修煉の仕方が分からないのだから、私がどうやれば良いか教えてあげよう」という良くない考えから発していました。
師父は「常人の善良さは、業を造らないよう、生存のための食物をとらないところに現れるのではなく、他人の悪を気にせず、心に恨みなく、嫉妬せず、故意に報復をせず、人を殺さず、むやみに罪なきものを殺さず、故意に生命を傷つけないところに現れるものです」[1]と言われた事があります。それに対して、自分はいつも人の不足を心に刻み、更にはそれを言い訳にして自分を顕示し、他の人を圧していました。だから私は他の同修から陰でそういう事を言われるのだと思いました。実を言うと、師父の説法から考えると、私は常人の善さえ、出来ていませんでした。自分は良く修煉できている、自分だけが正しいと思う思想は自分を前に進まないようにさせ、同時に知らず知らずのうちに同修を傷つけていたのです。
この時になって、同修のためになる事なのに、なぜ同修は受け入れなかったのか? と疑問に思いました。分析してみると、自分が以前同修と話すときの態度、言葉などに原因がありました。私は大法の前で全ての衆生が平等であることを基礎にして、本当に心から同修のために考え、同修を尊重する態度で、謙虚に善をもって注意し、お互いに励まし合い、共に精進するのではなく、自分が正しいという事に執着して、相手は自分の言う通りにすべきだ、相手が改めるべきだと強調し、自分は相手より優れていると強く主張していたことが原因だったのです。そうです! 私たちはみな修煉の中におり、みな人心があります。もし他の人がこういう態度で私に接してきたら、私も我慢できません。今後は同修に接する時に必ずこういう事に注意し、まず自分を正して謙虚に相手を敬うことです。礼儀正しく、他人を尊重することは善の表れです。
私がこの事に気づいた時、もう一人の同修と一緒に私は自らその同修の家に行きました。そして心から誠意をもって、「すみませんでした」とその同修に謝りました。「すみません」と言う時、私は自分の過失によって同修を傷つけてしまった事を反省し涙を流しました。全ての謝罪の過程で、私は少しも同修の欠点と不足に触れず、考えもしませんでした。すると思いがけないことに、同修は彼女が内に向けて探した事について話し始めました。同修は「わたしは以前ずっと大法の中で形式的に行っていい加減にしていました。私はこれから大法の中でしっかり修煉します!」と言いました。十数日続いたトラブルが一瞬にして解けました。生命の本性から発せられた境地が自分の心と態度を浄化し、始めから終わりまで私たちの交流を感動させました。そしてお互いの執着を溶かし、着実に修める信念を堅くしていきました。
ここで弟子は師父に感謝します。師父はずっと各種の形式を用いて私たちに自分の執着を見せ、それを取り除かせ、慈悲をもって一人も見落とす事なく私たちを見守ってくださっています。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『精進要旨二』「大法とは圓容しているものである」