さらに、内に向けて探す
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年1月19日】人の行動や話す言葉は目で見える人間の振る舞いであって、その人の思想の動き、さらにその人の行動の出発点や動機などは目には見えません。

 修煉者として、心を静めて法理に則って自分の思想の動きを判断することができなければ、自分はなぜそのように発言し、なぜその行動に固執するのかは見えません。本当に心を静めて、真面目に、さらに内に向けて探せば、きっとさらに深いところに隠されている執着を見つけることができて、表面上の事柄に惑わされず、悩まなくて済みます。

 修煉に伴い、法理に対する理解が深まるにつれて、多くの場合は表面上に留まり、内に向けて探すことを形式的に、浅く行ってはいけません。「内に向けて探したが、何も見つからなかった」というのは多くの同修が経験する悩みです。個人的に思うには、それはさらに一歩踏み込んで内に向けて探していなかったからです。結局、内に向けて探すことがうやむやになってしまい、しっかりと関を乗り越えていないために、再度その関に遭います。なぜなら、その関は試験のように、きちんとした答えを出していなければ再試験になり、乗り越えるまで繰り返し再試験を受けることになります。しまいには、体が疲れ果てて、さんざんやっても正しい解答を出すことはできないのです。

 この間、私はずっと家を買いたいのですが、資金的な余裕がないために悩んでいました。内に向けて探し始めたころ、なぜ家を買おうとしているのか自問しました。「今買わないと、値上がりしてから買えば損をする」ことを恐れていて、自分には利益を求める心があることに気づきました。

 この心を見つけてからも依然として気持ちが晴れないため、さらに内に向けて探しました。「故郷の親戚のほとんどが都市部で家を買ったので、自分だけ買わないと、面目がない」というメンツを重んじる心を見つけました。

 しかし、しばらくしてからまた家を買いたくなり、上記の二つの原因を取り除いたのに、どうしてまだ買いたいのかと考えました。「両親はずっと私が都市部で家を買うことを望んでいて、買えば両親を喜ばせることができる」という情の要素もありました。

 理性的に考えると、経済条件が芳しくない私は家を買わないのが一番です。しかし、利益やメンツ、父母との情などの外部要因に動かされて、どうしても家を買いたくなります。

 ここまで考えて、いつも他人に動かされてしまう自分が見えました。なぜ他人に容易に動かされてしまうのでしょうか? 表向き、私は他人の感受を重んじているように見えますが、じっくり考えてみると、私は真に他人のためではなく、自分自身の感受をもっと重んじていて、他人から良い評価を得ようとする心が根本の原因です。他人に称賛され、気に入ってもらうことを期待していました。それならば、今までの自分の考えや行って来た行動は自分の賢さ、有能さを証明することであり、一言で言えば自我への執着に過ぎないことが分かりました。

 さらに内に向けて考えてみると、小さい頃から、修煉してからもそうなのですが、多くの場合は他人から良い評価を得て認められようと努力してきました。虚名のために自分を表現、演出し、甚だしきに至っては、事々に他人からの評価を考えたり、よくできればどんな良い名声を得るかを考えたりして、やっていることを真面目に実行するのではなく、他人の目を常に意識する偽の自分の中で生きてきました。

 もし、すべてのトラブルや事柄に対してさらに一歩進んで内に向けて探すことができれば、必ず内心の深い所に隠されている執着を掘り出すことができます。井戸掘りを例にすれば、99回掘って水がなければ場所を変えてまたも99回掘り、水が出なければまたも場所を変えるようなやり方では、いくら場所をかえても水を得ることができません。実は同じ場所であともう1回、あるいは数回深く掘れば水が出てくるかもしれません。あとほんの少し、前に向かって一歩を踏み出せば、事は本質から変わってくるかもしれません。

 修煉者として、無条件に内に向けて探し、さらに深く探していけば、きっと自分の言動の動機が見えて、さらに執着を取り除き、絶えず自分を浄化して法に同化し、純粋且つ平穏な心構えで三つのことを実行していくことができます。

 以上は現段階での認識ですが、妥当でない部分があれば同修のご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/1/11/340702.html)
 
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