嫉妬心を取り除く
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年10月22日】嫉妬心を取り除かければ、修煉しても正果を得られず三界から出ることもできません。

 嫉妬はつまり他人の品行、才能、名誉、地位や境遇などが自分より上であることに対して、心のバランスが崩れ、相手に害を加え、意地悪を働き、言葉で相手を傷つけるなどのような極端なやり方をもって人間関係を対処することです。このようなやり方は心が善良ではなく、他人を傷付けるだけでなく、自分にも業力を作ると同時に徳をも失ってしまいますので、私たちは嫉妬心を徹底的に修めなければなりません。このようにして初めて度量が大きく包容力がある人になれます。

 師父は嫉妬心について次のように説かれました。「嫉妬心は修煉にとってきわめて大きな障害であり、煉功者への影響が非常に大きく、煉功者の功力に直接影響を与え、修煉仲間を傷つけ、上を目指して修煉するのを甚だしく妨げるものです。修煉者としては百パーセントそれを取り去られなければなりません。煉功して一定の次元に達した人がいますが、嫉妬心をなかなか取り去ることができず、しかも取り去られなければますます強くなる一方です。このような反作用は、その人のすでに高められた他の心性をも脆弱にしてしまいます」[1]。「嫉妬心のある人は人を軽蔑し、他人が自分を上回るのが我慢なりません。他人が自分よりできるのを見ると、心のバランスを失い、耐えられなくなり、認めようとしません」[1]

 昔の人は嫉妬心を表現するときに次のように述べました。「他人が良いことをしたと聞いたときにすぐ内心でそれを疑い、他人が悪いことをしたと聞いたときにそれを全く疑わずに信じてしまいます。他人に良いことがあったときにまるで自分が何かを失ったかのように悲しくなり、他人が損をしたときに自分が何か得をしたかのように平然としています」。嫉妬心の奇怪な心理状態を余すところなく鋭く描き出しました。

 嫉妬心は修煉者にとっては最もあってはならないものです。申公豹(しん こうひょう)(訳注:中国の明代の神怪小説『封神演義』の登場人物、元始天尊の弟子)は嫉妬心が取り除かれていなため、元始天尊(訳注:道教神学中の最高神)に北海眼に閉じ込められてしまいました。嫉妬心は党文化の現れでもあり、神伝文化によってそれを頭から取り替え、真に大法の要求に従って道徳性、品行を高めて、始めて嫉妬心を根こそぎ取除くことができます。

 中国明代の理学者(訳注:本文の理学とは宇宙の本体とその現象を理気の概念で説いた哲学のことであり、「理」を追求したので「理学」と呼ばれた。「性即理」と説いたので「性理学」とも呼ばれる。中国の宋時代に興隆した)である陳継庭は、君子(訳注:師徳が高く品位のある人、人格者)にとっては恥ずべき行いが二つあると述べました。その一つは自分の長所をひけらかすこと、もう一つは自分の過ちや短所、不能を隠すことです。また君子にとって二つ下劣な行為についても述べました。その一つは他人の能力を嫉妬すること、もう一つは他人の短所や不能を言いふらすことです。他人の短所を言いふらすことによって業力を作るだけでなく、自分の徳を失うことにもなります。これらは君子としての有り様や物事の対処方法ではありません。

 同じく明代の理学者・王陽明は、人の病気の由来は奢りによるものが多く、そのような人は孤高を以って自任し、独り善がりで、強がりで他人に負けたくない傾向があります。逆に謙虚な人は礼儀正しく、他人を敬うことができ、虚心で他人を受け入れます。それは他人に見せかけるのではなく、その人の行動は内面の現れであり、自分の不足がはっきりと分かっているからこそ、他人の地位が自分より上であっても不満がなく、他人の優れたところを見習い、自分をさらに良い人間に磨き上げます。謙虚な人は自省することができ、他人のせいにして、当たり散らすことも無ければ、他人に嫉妬することもありません。

 一部の同修は嫉妬心や闘争心に煽られて理性を失い、甚だしき至っては、内と外の区別もなく、互いに足を引っ張り合ったりします。大法弟子が互いに協調が取れず、魔がやりたくてもできないような破壊作用を果たし、邪悪を喜ばせ、師父に悲しい思いをさせてしまいました。人を救うどころが、自分の修煉に支障をきたしました。師父は「今になっても、一部の学習者は互いの協調においてまったくできていません。普通にできていないのではなく、場合によってはお互いの足を引っ張り合っています。あなたに教えますが、どういう心であれ、大法弟子のプロジェクト、または大法弟子が行なうべきことに対して、足を引っ張る作用を働いたら、あなたは魔の作用を働きました。私が大法弟子であり、多くのことも行なったと思っているかもしれませんが、旧勢力はすべてを記録しています」[2]と私たちに警告されました。

 多くの同修が互いに協調が取れていないのは、実は多くの場合は嫉妬心によるものです。口では何も言わないのですが、内心では互いに見下し、排斥し合ったりして、根が深く、大きな隔たりをつくってしまいました。顕示心と闘争心は更に嫉妬心を助長させることができます。甚だしい場合は修煉者によって異なる程度の病業の仮相をもたらすこともありますが(もちろん他の人心によるものもあります)、本人は自覚がありません。師父は説法の中で何度も顕示心による危害について言及しましたが、ある同修は労働教養所でひどい迫害を受けたにもかかわらず、出て来てから間も無く、顕示心がまだ出てきました。修煉の中でいかなる些細な人心を混ぜ入れるのも極めて危険です!

 大法のホームページにある交流文章に次のようなことが書かれていました。ある2人の同修はいつも、互いにうまく協調が取れないため、その中の1人はいつも悩んでいました。ある日、師父はその同修の数回の輪廻の記憶を蘇らせました。2人の間の因縁関係は全て旧勢力の按排によるものだと分かりました。師父は今生2人が人間に生まれる前、師父が絶えず2人の耳元に繰り返し同じ言葉を話しかけていたシーンも見せてくださいました。その言葉は「くれぐれもお互いによく協調するように、くれぐれもお互いによく協調するように、くれぐれもお互いによく協調するように・・・」でした。その同修はこれまでの不仲を忘れ、自分の不足を探し、自ら同修に合わせ、協力するようになりました。師父と大法は恨みなどの全ての因縁関係を善解することができます。

 嫉妬は「私のため、自分のため」であり、この点は旧勢力と全く同じで、師父の要求と相反しています。嫉妬心を取り除かないことは旧勢力の按排に従うことではありませんか? 旧勢力の観念に符合すれば、旧勢力に支配される口実を与えてしまいます。師父は「ご存知のように、旧勢力の体系がすでに一掃されましたが、この世の表面までまだ突破してきていません。まだ突破されていないこの世に、歴史上の遥か久しい何千万年も前に、旧勢力はすでに多くのことを決めてしまいました。旧勢力が決めたこのものは円盤のように回っており、回転によって位置が変わると、この世に、ある天象が現れてきます。さらに、このものは人体とも繋がっています」[3]と説かれました。つまり旧勢力が按排した機制がまだ回転しており、作用しています。私たちは真に着実に師父が按排された道を歩み、師父の教えに従い、「真・善・忍」に同化して始めて旧勢力の按排を否定することができ、新宇宙の大覚者になるための成功の道を邁進することになります。多くの大法弟子が、自分は師父の弟子であり、師父が按排された道を歩み、旧勢力の按排を否定すると口では言っているものの、口先だけでその行動は師父の要求に達するどころか、旧勢力の観念に符合し、言行一致しておらず、旧勢力に迫害の隙を与えてしまいました。全ての私心を修め、自我及び全ての人心と執着を放下して始めて、旧勢力が植え付けた円盤がおのずと解体することになり、私たちに本当の家へ戻る望みがあるのです。

 注:
 [1]李洪志師父の著作:『法輪功』「第三章 心性を修煉する」
 [2]李洪志師父の著作:『各地での説法』「大法弟子とは何か」
 [3]李洪志師父の著作:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/7/15/331306.html )
 
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