私はなぜ心が揺れ動いたのか
■ 印刷版
 

――交流文章と大法をどのように見るかについて

文/中国の大法弟子

明慧日本201611月6日】師父の新経文『波紋を呼んだ副元神に関する文章について』を拝読した後、私は自分の修煉に重大な問題があることに気付きました。この問題は自分の心の中にある位置に大法を正しく置いていなかったことです。私は法の中で成熟していかなければならないと感じました。

 私はここで文章の作者がその文章を書くべきか否かを話しているのではありません。一人一人の道が違い、認識も違うからです。また明慧ネットは大法弟子の交流の場で、ここで明慧ネットの同修がしっかりやっていないと言うのではありません。私は明慧ネットの同修がその文章を毎日の交流文章として載せ、『明慧週刊』に入れないやり方が理性だと思いました。ただ一部の同修の人心が触れられた後、内に向けて探さず、執着心に捉われて、動揺してしまいました。

 全ての同修は自分がなぜ動揺したかを考えるべきです。私は内に向けて探し、厳重な問題を見つけました。それは同修の交流を正しく見ていないことでした。明慧ネットに私を引き付ける文章(自分の人心に附合し満足できるもの)があると、心がすぐ動きました。同修の交流文章を法より重要だと見てしまいました。師父の諄々とした諭しから、私達はみな分かるようになったことは、修煉の道がそれぞれ異なるため、他人の体験は参考に過ぎず、真の向上は必ず法の上にあります。

 私はときには同修の交流文章をみるとき、引用された師父の説法について、自分はすでに分かっていると思い、ざっと拝読してしまいましたが、同修の体験は真面目に読みました。特に他の空間に関連する部分にとても興味がありました。ときには、同修の交流文章を読んで学法の時間を忘れたこともあります。交流文章を読んだ後、残った時間に学法し、ときには学法をしませんでした。

 さらにひどいのは、修煉の中で自分或いは同修に問題が現れたとき、先ず思い出したのは、同修の認識や同修のやり方で、師父がどのようにおっしゃったかを思い出すことができませんでした。知らない内に同修の認識と体験を法としていました。このような考えが続くと、人に学び、法を学ばないひどい状態を招き、法を乱す者にチャンスを与え、法を乱す者について行き、彼らの認識を法として自分の修煉を指導し、自分と他人に害を与えるのです。

 修煉者として、トラブルに遇うとき、先ず思い出すのが師父と大法のものでなければ、すでに危険な状態になっているのです。今、これは人心からのものだと分かりましたが、どのような心であるに関わらず、自分の心の中の位置に大法を正しく置いていなかったことが原因でした。

 また、旧勢力の妨害は、師を信じ法を信じるより重要だと見ていました。これも心の中の位置に大法を正しく置いていないことでした。私は2000年に迫害により放浪生活を余儀なくされました。1年後、不当に連行され、留置場に拘禁されました。1年あまり同修に会ったことがなく、師父のすべての新経文を読むこともできず、法を正す形勢もわからず、同修に非常に会いたいと思いました。

 数日後、不当に連行された数人の同修が私の拘禁された部屋に入れられました。同修に会うと、私はとてもうれしく、同修としっかり交流しようとしましたが、同修は「全ては旧勢力の按排で、一つの念、一つの目つきもみなそうです」と言い、どうすることもできませんでした。旧勢力の按排は大法弟子をさえぎっている巨大な山のように、越える希望がないように、自分の以前やった全ては旧勢力に按排されていました。

 私はしばらく法を勉強できなかったからですが、私はすぐ自分を修正しました。私は同修に「だれが按排したかは、私達にとっては関係ありません」というと、この同修は頭を振ってなにも言わず「あなたはどうしてこのように認識したのか?」と言っているようでした。今、分かったのは、私達はいかなる妨害をも重く見てしまえば、知らないうちに師を信じ、法を信じる正しい道からそれてしまう、ということでした。

 上述した一部の同修は交流文を見ることが学法より重要だと思っています。一部の同修や私も、頭の中で師父の各地での説法の勉強が『轉法輪』より重要で、『轉法輪』はすでによく分かっていると思っています。私自身はある時期に各地での説法の勉強が好きで、『轉法輪』の勉強はとても少なく、或いは勉強せず、各地での説法の拝読を自分の学法の代わりにしてしまいました。徐々に私は自分が『轉法輪』の拝読を排斥する考えがあることに気付き、この状態は正しくないと警戒しました。私は『轉法輪』を多く勉強し始めましたが、はじめはなにも悟れないと感じ、勉強したくなくなりました。私はこれがよくない念だと分かり、これを抑制し、『轉法輪』の勉強に努めました。徐々に心が落ちつき、その後ますます好きになり、勉強すればするほど勉強したくなりました。さらにその後、徐々に心が落ちつき『轉法輪』の暗記を始めました。暗記する過程で、私の理解はますます深くなりました。師父の各地での説法内容はみな『轉法輪』の中にあり、私の修煉のすべてもこの『轉法輪』にあり、私は何をやるべきか、どのようにやるか、問題に対してどのように対応するかもみな『轉法輪』の中にあります。

 最近、師父は説法の中で学法は主に『轉法輪』を勉強するようにと再三に強調なさいました。私が思うには、多くの同修は師父のおっしゃった「つまり、私は皆さんに与えることのできるもの、皆さんに私のできることを全部法に織り込みました」[1]という深い意味をまだ理解できず、『轉法輪』の勉強が私達の修煉の指導にどれほど大切か、真の宇宙大法はこの『轉法輪』なので、他の説法はみな『轉法輪』の解説であることを理解できていなかったのです。

 個人の認識で、法に符合していないところがあれば、ご指摘ください。

 注:

 [1]李洪志師父著作『オストラリア法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/8/26/333480.html )
 
関連文章