二言三言:すべての執着は「私心」から生じたもの
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年8月14日】すべての執着は「私心」から生じたものです。

 師父は「真・善・忍という特性を持った宇宙空間は本源的に善良なものであり、人間も生まれた時は、宇宙と同じ特性を持っています。しかし、生命体が多くなると、その集団に社会的な関係ができてきます。その中の一部の者が、利己的になっていったために、次第に自分の次元を下げ、ついに自分のいる次元にいられなくなり、それより低い次元へ堕ちていきました。ところが、つぎの次元においても、まただんだん悪くなり、そこにもいられなくなって、下へ下へと堕ち、最後には人類という次元にまで堕ちて来たわけです」[1]と説かれました。

 人類社会の「名、利、情」も、すべては「私心」から始まり、「私心」が無ければ「怖がる心」も無いのです。ならば、「嫉妬」「争い」「顕示」「歓喜」「恨み」「つらい思い」はなくなるはずです。

 法を正す時期の大法弟子は「私心」がなければ、円満成就に執着する心もなく、時々刻々、他人のために物事を行う人になります。「私心」が無ければ、私たちは真相を伝えるときに、躊躇することもありません。「私心」が無ければ、安逸心を求める心はないはずです。大勢の衆生は私たちが大法の真相を伝えるのを待っています。

 師父は「さらに皆さんに教えますと、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私のためを根本としたものだったのですが、今後、何かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです。それゆえに皆さんは、今後何かを行ない、何かを口にするときにも、ほかの人のため、ひいては後世の人のために考えなければなりません! 大法が永遠に変らないようにするために考えなければならないのです!」[2]とおっしゃいました。再び読んだとき、私はさらに「私のため、自我のため」の危険性と法を正す中で「無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです」の重大な意義が理解できました。

 個人的な見解ですので、適当でないところがあれば、ご慈悲にご指摘ください。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「佛性に漏れなし」 

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2001/11/17/19835.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2001/11/25/16174.html)
 
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