【明慧日本2014年9月19日】少し前の私は、他人の不足を見つけたら、いつも善意をもって相手に指摘するようにし、話す内容も法に基づいていると思っていました。しかし、ある人に「言っていることは素晴らしいが、着実に修煉していない」と言われましたが、私は納得できませんでした。
最近、三つのことを行っていますが、しかし、修煉状態があまり良くなく、何かが違うと感じていました。ちょうどこの時、ある事が耳に入りました。ある同修は自分の妹に、ここではどの同修がどの修煉状況なのか、自分が一番よく分かっていると話し、彼女は同修の不足を見るばかりで自分を探すこともせず、同修一人ひとりの不足を妹に言いました。結局、自分が精進できなくなったばかりか、少し前に同修であるご主人も亡くなって、彼女の妹も姉を崇拝するせいで精進しなくなりました。
私がこの事を聞いたのは偶然なことではなく、師父は「いかなることに遭っても、最初の念はまず自分を考え、これはすなわち『内に向けて探す』ということです」と説かれました。[1] この同修の状態は、まさに私の最近の現れと同じではないでしょうか? 問題に遭ったら、内に向けて探すのではなく、かえって自分が正しいと思っています。反省すると、自分が指摘した他人の不足はちょうど自分にも存在する問題で、同修は本当に自分の鏡なのです! 私が見た同修の不足は、往々にして自分がまだ意識していない執着であり、その執着を拡大してしまったため良くない状態に至ってしまったのです。このことにより、人の不足が見えたら自分を探すことがいかに重要か、集団学法に参加することが重要かが分かったでしょう。このような修煉環境がなければ、自分に意識できない執着を見つけることは簡単なことではないからです。
外に向けて見ていると、自分が良くできていると感じるのに対して、内に向けて探せば、自分に問題があると分かります。内に向けて探して着実に修煉してこそ、よく協力でき、一体を形成できるのです。
この交流文を書いたのは、自分のような問題のある同修に早く内に向けて探すように、そして同修とよく協力し合って衆生をたくさん救い済度するようにしてほしいからです。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」