文/台湾の大法弟子
【明慧日本2016年12月30日】学期のはじめ、私はいくつかの進級できないクラスを受け持つことになりました。学生たちが授業を受ける状況はさまざまでした。授業中に眠る子を起こせば下品な言葉で言い返し、授業中にこっそり食べる子に注意すれば、同じく汚い言葉を言ってきました。授業中に言い争わない子らは下品な言葉を口にして喧嘩しました。このような場面は毎日授業のほとんどで見られます。
一回一回我慢し、一回一回の個別談話を行い、一回一回の補習をするためにすべての時間を消耗し尽くしました。家に帰ってから真相を伝えるプロジェクトや協調の仕事、偶発事項の処理もしなければならず、休日に観光地にも行かなければなりませんでした。時間に追われて、精力も尽き果て、自分はまるで水が一杯盛られている瓶のように、あと一滴でも垂らせば溢れ出るような感じでした。この正しくない状態の中で、内に向けて3カ月探し続けても、問題が見つかりませんでした!
師父は法の中でこうおっしゃっています。「佛光は普く照らし 礼儀は圓明となる」[1]。なぜ自分の空間場には多くの論争が充満しているのでしょうか? ある日、学生がまたも汚い言葉を口にしました。私は直ちに彼に立ち続ける罰を与え、その後、行為指導記録表を書くよう命じました。彼は「下品な言葉を口にしてから後悔しました。次回は必ず耐えます」と書きました。突然、私は自分の問題に気づきました。学生の私への尊敬不足、いらいらする様子、他の人を軽蔑する行為、ひとりよがり、分別心、怠惰な心、これらは私の映しでした。せっかちな私はいつも他人を話の腰を折り、他人を尊重せず独りよがりでした。いらいらする私はいつも明快に物事を判断、処理してしまい、そこには多くの時間を費やしたくない怠惰な心が隠されていました。他人を見下す私は何となく優越感を覚えていましたが、それは嫉妬心でした。私は常に自分の立場にだけ立って物事を見たり、考えたりして、他人への理解、包容、聞き入れる心構えがありませんでした。
師父はこうおっしゃっています。「日頃いつも慈悲の心を保ち、善を持って人に接し、何かをする時にはいつも他人のことを考え、問題が起きた時はいつも他人がそれに耐えられるかどうか、他人を傷つけることはないかを考えていれば、何の問題も起こりません」[2]
学生から無礼な態度を受けた時、メンツを重んじる心や自己保護の念が先に働いてしまい、これらの魔性によって目が外に向かってしまいました。また、他人の悪さに対して心の奥深いところで恨みを抱き、人を罵る学生をもっとも印象にとどめ、彼らの悪行を心に刻み込み、先入観に囚われた私は彼らがそのような悪い人だと思い込んでいました。分別心があるゆえに、平等で無私な対応ができませんでした。
再び授業に臨む時、ある学生がまたも下品な言葉を口にしました。私は笑って「どうしてそんな言葉を使いますか?」と彼にききました。彼は「慣れたからです。この習慣がよくないと知っています。努力して直します」と言いました。私は彼がきっとできると励ましました。こうして授業の雰囲気は大分和らいできました。学生は「先生、なぜ怒らなくなりましたか? もう処罰をしませんか?」と聞きました。私は彼に「先生は法輪功を修煉していて、師父から物事を対処する際、他人がそれに耐えられるかどうかを真っ先に考えるようにと教わっています。もし先生が怒ってあなたを罵ってしまえば、あなたは更に怒り出して、先生の話を少しも聞き入れたくなくなるでしょう? それに多くの場合、あなたはただ習慣でつい口に出してしまったり、あるいは気分が悪かったからでしょう?」と言いました。学生は頭を下げて謝った後、「法輪功とは何ですか? 中国共産党はなぜ法輪功を迫害しますか?」と聞きました。
学生を見ていて、私は彼らが真相を分かったことに喜びを感じました。更に、自分の不足に気付かせてくれた彼らに感謝しました。
不足が見つかった後、私は座禅の入定の中で自分が殻から抜け出し、新たな自分としてそこから出て来たのを見ました。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「法に溶け込む」
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』