同修が問題に陥った時
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 【明慧日本2014年8月24日】今日まで修煉してきましたが、同修たちはみな法を実証することが第一であると理解しています。しかし一方で、多くの同修は時々、もう一つの極端に走ってしまい、安易に大法を実証することを第一にして、常人や家族及び一時的に人心を現した同修との関係にうまく対処できず、かえって法を実証するよい効果を達成できないことがあります。

 同修の間に人心がまだ存在していたり、短時間の内に人心が現れてくる時、実は常人と接するような寛容さと助けが必要です。この面でよく行なえば、多くの面倒なことを減らすことができます。

 ある同修は問題を抱えて解決が必要なのですが、自分で多くの時間をかけてもよくできませんでした。その間、彼は他の同修に助けを求めたのですが、その過程で他の同修はこの件の根本原因が彼の心にあると気付きました。しかし、彼はこの問題をあまりにも解決したいと思い、甚だしきに至ってはだんだんと他の事を全部後回しにするようになり、この件を一番重視するようになりました。彼がこのようにすればするほど、この問題を解決できなくなりました。同修はついに彼に告げましたが、彼は聞き入れず、徐々に同修たちも助けなくなり、彼一人になって、ますます悪循環に陥ってしまいました。

 その後、彼は私に尋ねてきました。私はだんだんと彼の問題を見つけました。例えば解決を試みる過程で、彼は正念を発する時間になっても、正念を発しなくなり、発しても心がそこにありません。彼はあまりにもこの問題を解決したいのです。どうしますか? 直接彼に告げて直してもらいましょうか? 今まで同修たちも指摘しましたが効果がなく、彼の抵抗をひき起こしてしまいました。難の中にいる時、その人は他人の意見をなかなか聞き入れないのです。彼の心が変わらなければ、内に向けて探さず、この問題を解決できないかもしれません。そうであれば時間の無駄使いをしただけになります。

 しかし、どうしましょうか? このような時に言い訳を見つけて逃げるのですか? 他の同修はこのようにしましたが、今、同修は明らかに難の中におり、根本の原因が分からず、私がこのまま離れてもいいのでしょうか? 同修は分からないから、問題に陥って出られないのです。彼は私の同修です。同修が助けなければ、誰が助けますか? 常人の友人にしても、この問題に遭遇したら、助けるのに、なぜ同修が内を探さないことを放っておくのか? と自分に聞いたとき、時間をかけて同修のそばで助けてあげることを決意し、また機会を探して彼に分かってもらおうと思いました。

 同修と一緒に検討して、いろんな方法を考えて、試してみました。当日は最後になってもやはり解決できませんでしたが、とても感動して、ほかの同修は責めるだけだったのに、私だけが一緒に方法を考えてくれたと言いました。私は彼に、「これは当たり前のことです。私たちは同修だから、一人に困難があれば、もちろん助けなければなりません。師父は私たちに互いに助け合ってほしいのです。でも、私たち修煉者は常人と違うところはつまり内に向けて探すことなので、私たちが遭遇したことはみんな私たち自身の心と関係があるかもしれません。ほかの同修の言う話が、気に入るか入らないかにかかわらず、冷静に考える必要があるので、もしかして私たちに啓発の作用があるかもしれません」と言いました。私が同修と一緒に問題の解決を試したので、この話を聞いた同修は少しの抵抗もなく、ずっと「はい、はい」と納得してくれました。

 問題がまだ解決できていないので、それから同修はまた数回私に尋ねてきました。何回かほかの事で忙しかったのですが、自分は必ず同修を助けなければならない、これも自分の責任だと、彼と一緒に解決しました。私がそばにいてあげて、導くことで彼は執着心をだんだん放下したと感じました。一度彼は、「まずおいておく、明日なおるかもしれない。このようなこともあり得るから」と言いました。翌日なおっていませんでしたが、状況がよい方向に向かっており、最後に完全に解決できました。同修もとても喜んで、彼の認識も徐々に高まってきました。私は彼の問題を解決するのに少し時間がかかったのですが、その過程で彼は何回も私を手伝ってくれました。二人合わせるとかかった実際の時間は無駄にならず、しかも私たちの間の関係や互いの協力もさらによくなりました。もし彼一人でずっとこの状態でしたら、未だに解決できなかったかもしれません。

 私たちはみんな修煉の中にいるので、円満成就するまでは、だれでも不足があるのです。同修に人心が現れて来た時、この点においては常人であり、問題の本質は同じです。なぜ家庭環境がよい同修と、家庭内で緊張が走る同修がいるのでしょうか? 実はこの関係を正しく処理できていないからです。私たちは簡単に大法を最優先に置き、家族と常人の感覚を無視して、甚だしきに至っては自分の修煉の中の観念を強制的に常人に押し付けたりして、かえって大法に泥を塗る可能性もあります。修煉者は他人の気持ちを考えて、人に慈悲を与え、身の回りの家族や常人に善と責任感を感じさせます。このような基礎があれば、半分の労力で倍の成果をあげることもでき、同時に身の回りの常人を助けて更に大きな恩恵を得ることもできます。

 少しの体験ですが、ご参考まで。合掌!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/8/8/295730.html)
 
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