文/米国の大法弟子
【明慧日本2012年11月4日】修煉の向上によって、皆さんは修煉の中の一つ一つことがすべて、私たちの心性を向上させる良い機会だとわかっています。良いとでも悪いことでも、私たちは内に向けて探し、自分が向上するべき部分を探すべきです。
しかし私は内に向けて探すことについて、一定の期間間違った認識がありました。私はトラブルに出会うとすぐ内に向けて探し、自分にあれこれの執着があることに気づきます。昔はすぐにトラブルの中に陥って問題を見て、いつも他人のせいのように感じました。次第に自分を探すようになり、自分が内に向けて探すようになったと思いました。しかし、再び問題に出会って探してみると、また前回探したそれらの執着心だとわかり、向上が遅いと感じました。
今まで自分の内に向けて探すことは、自分の不足を探してそれで終わりでした。真に内に向けて探すことはそれで終わりではなく、執着を探した後にその執着心を正し、修めて取り除くことまでだと思います。
例えば、惰性の心が見つかり、自分に惰性があること認めるだけで終わりではありません。一つ一つことで、その惰性を取り除こうとしなければなりません。惰性に負けず朝に煉功を続けること、プロジェクトを行うとき細部まで気を配り、いい加減に終わらせないこと、いかなることでもだらだらせずに時間を大切にして、早めに完成することなど、すべての方面で努力して、続けることが内に向けて惰性を探したことだと思います。内に向けて探すことは長期的な過程であり、勇猛邁進して、自分に厳しく要求しなければなりません。
師父は『二〇一〇年ニューヨーク法会での説法』で以下のようにおっしゃいました。「三尺ほど凍った氷は一日にしてならず、というように、形成されたものは一回ではなかなか取れず、充分な熱がなければ、それを溶かすことができず、何回かでやっと溶かせるのです。今日の修煉が少し良くできたので、一部の氷を溶かしますが、明日の修煉が良くできたら、また少し、あさってまた少し溶かし、徐々に本当に正念が充分になり、熱が多くなれば、全部溶かしてしまうのです」
自分に不足があると認めますが、それを取り除くための努力をしない問題は、大いに苦をなめたくないことが原因です。多くの執着心を取り除くとき、心をえぐり取るように本当に苦しいことで、特に長期に渡って身につけたものは本当に決心し、強い意志で苦をなめなければなりません。多くの執着は一回で終わるものではありません。この問題は他の同修にも見られることで、「十数年探してもまだこれらの問題です」という同修の話を聞いたりします。原因は様々だと思いますが、努力して正そうとしないことがその一つだと思います。