【明慧日本2012年8月6日】昨日『ニュージーランドでの説法』を学んだ際、ある学習者の質問に対する師父の以下の説法について私は深く考えさせられました。「ある人がもしただ近づいただけで、真にこの門に入らずに、通っただけで、或いは門外でずっと迷っているのでしたら、それは最も悲しいことです。ここで話した全てはどのように一人の修煉者になるかを教えています。執着しているこれらのものを放棄できなければ、永遠に一人の修煉者になれないのです。」
いかにして根本的な執着を放下し、一人の真の修煉者になり、師父の真の弟子、そして全宇宙の中で最も光栄な生命になるのかについて、法を正す時期が終わりに近づいている今日に言及する自分自身を非常に恥ずかしく思い、そして問題の厳重さも感じています。長い期間を経て、多くの風雨を経験する中で、私が大法の中に居続けることを選択したのは、真に修煉したい一心があるからなのか、あるいは自分の根本的執着が自分をそうさせたのでしょうか。
常人としての自分は非常に粘り強い人で、多くのことは自分が最後まで行い続けることにより、良い結果も得られました。修煉に関しても、邪悪による恐怖の迫害を前に私は続けることを選択し、むしろ大法を放棄するなどと考えるだけで生き地獄のような苦痛を感じ、恐らく私の目覚めている一面が私に、この永久に出逢うことのできない機縁を逃してはいけないと暗示していたのだと思います。
一方で、私の根本的執着も作用していたと思います。師父は『精進要旨二』「圓満成就に向かって」の中でおっしゃいました。「修煉してしばらく経っても、まだ当初の考えのままなのでしょうか、人間のこの心が、自らをここに留めさせているのでしょうか? もし、そうであれば、わたしの弟子とは言えません。これはすなわち、根本的な執着心が取り除かれておらず、法の上から法を認識できていない、ということです。」私は法を自身に照らし合わせ、気づいたのですが、大法の中に自分の身を置かせ続けさせている多くは自分の人心、人間としての執着と欲望でした。
私は大法から得た心の安らかさ、穏やかな心理状態、そして超越した人生観に執着し、大法により得た同世代者以上の健康と美しさに執着し、大法の法理の指導の下、悪いことをせず業を作らず、そして魔難も少ないことに執着し、大法修煉により人生の目的、目標が分かったため、楽しく充実して生きることに執着し、精神的な寄り所ができたので以後の人生の歩みに恐れ、空しさと苦痛がないことに執着し、師父の守りと指導があるため、これからは迷いがなく、人生の無常を恐れず、心配や不安、苦痛の感覚も味わわなくて済むことに執着していました。大法から離れることを思うと、修煉前の自分を思い出します。毎日何をどうすべきか分からず、人生の目標も定まらず、自分の最終的な帰着点がどこにあるのかも知らず、あれこれと心配し、日々焦り、恐怖と不安の中で生きていても少しも生きる楽しさを感じませんでした。これを思うと、本当に生きた心地がしません。
しかし、私には修煉する決意がありますか? 修煉がいかに神聖で偉大なことかを思ったことがありますか? 私はただ、大法を利用して常人の良い生活を送り、真に返本帰真の一念を起していません。これはどれだけ危険で恐ろしいことでしょう。師父が法を伝えたのは、常人にただ常人社会でより良い生活を送らせる為ですか? 師父が私たちに説いた法は仏や道を修める法であり、常人の道理でなく、常人にいかに常人社会で生活するかの指導でもありません。大法を利用し、常人社会で良い生活を送ること自体、一種の窃法行為です。
師父が法を伝えたのは、弟子たちに成仏する修煉の道を歩ませる為にあると思います。しかし私は知らず知らずのうちに大法を道具として、自分が常人社会で得たかった物質的や精神的なものを獲得するために利用し、大法を利用することしか考えておらず、真に修煉していませんでした。
時に思いますが、法を正す時期が終わりに近づいています。いざ法が人間社会を正すその一刻が来た時、私たちのような根本的執着が取り除かれていない人々は、どんな位置に置かれるべきでしょうか? どうか、私と同じ状況にいる同修達は今一度自分を省みて、自分が大法の中に居続けている理由が真に修煉のためなのか、あるいは常人のものを放下できない為なのかを深く考えてみてください。根本的な執着を解体し、師父の真の弟子になりましょう。
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