ほめ言葉ばかり聞きたがる心を早く捨てるべき
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文/カナダの大法弟子

 明慧日本201252日】修煉を始めてから14年来、私にはずっと捨てがたい強い執着心がありました。つまり、褒め言葉を聞きたがり、指摘は聞きたくない心です。最近、師父がこの心を認識し、捨て去るように按排して下さったことに気づきました。私がこの心に気づいた過程を書き出して、同修と交流したいと思います。

 仕事の内容が変わったことにより、私は会社の上層部とやり取りを始めました。仕事の内容にまだ慣れていないので、私は会議に出席しても、ただ聞くだけで何の意見も発表せず、会議のメモを取ったりしていました。会社の上層部の中に管轄範囲も広く、多くの会社の方針などを決める人がいました。他の同僚から、その人は付き合いが難しい人だと聞きました。実際、その人の会議に出席するたびに、彼は大声で怒った態度で話し、人々に大きなプレッシャーを与え、会議の雰囲気も非常に重く、質問も言い出せない場合が多かったのです。会議後私は他の同僚と、彼の行いは会社の伝統を破壊する行為で納得できないと愚痴をこぼしました。家に戻ってからも「誰がこのような人に好意を持つのか、会社はなぜこのような人にそんなに大きな権限を与えたのか」と考えました。

 この期間、妻同修とは何も話しませんでしたが、妻は「師父は私たちに無条件で内に向て探すようにおっしゃいました」と何回も話してくれました。最近は割合精進しているのに、何を探せというのかと思いました。

 先週の火曜日の会議でも、彼は再びかんしゃくを起こし、私は重要な質問をすることができず、非常に気が重かったのです。事情があって翌日もある会議には参加できませんでした。会議後、上司は私を訪ねて、今日の彼の態度は非常に良かったと話しました。上司は冗談で「僕らは、あなたの不参加で、彼の態度がよくなったと思う」と話しました。私は完全に冗談だと受けとりました。私などは地位も低く、会議で何も発言しない私のためにかんしゃくを起こすわけがないと思いました。

 今朝、『二〇〇四年シカゴ法会での説法』の以下の段落を読みました。「一人の修煉者として、なぜ時に意見を戦わせて対峙しているのでしょうか? なぜいつも他人の態度を強調しているのでしょうか? なぜ他人に何かを言われたら、心がすぐ動じてしまうのでしょうか? 罵られても心が動じないようにすべきではありませんか? トラブルの中で多くの場合、このものが作用しています。このものに刺激されたらすぐ激してしまい、心臓まで速く動いてしまい、この時法のために責任を負うことなど考えられなくなり、腹が立って仕方がありません。『あの人の態度がなぜいつも良くないのか、なぜ誰に対してもこの態度なのか』といつもこのように強調している人がいます。『皆あの人に対して不満がある』と言っている人もいます。師父である私に言わせると、皆間違っています。皆ほめ言葉を聞きたいという心がなく、罵られても心が動じなくなった時、相手がまだこのように言うのかを見てみてください。皆さんにこの心があるからこそ、皆さんの心を刺激する要素があります。皆さんにこの心が生じたから、皆さんは反感を覚えてしまいました。皆さんにこの心があるから、皆さんが嫌がっている自らの心を刺激する人を現させたのです。強い言葉に刺激されても、心が落ち着いており、まったく動じなければ、このような要素がまだ存在するかどうかを見てみてください」

 これは私のことをおっしゃっているのではありませんか。紛れもなく私のことをおっしゃっています。振り返ってみると自分の悟性は確かに悪く、師父は何回も悟らせてくださいましたが、私は分からず、師父にご心配をかけていました。

 この執着心を認識して、取り除かなければならないと思ってから、すぐトラブルが訪れてきました。午後小さなことで、妻は私に二言三言話しましたが、私はすぐ腹が立ち言い返しました。こんなに長年修煉していたのに、まだよく行なってない自分を、本当に恥ずかしく思います。もっと頑張って師父が向上させてくださる次の機会を待ちます。これを書き出したのは、私と同じように問題がある同修と交流し、早くこの心を取り除かなければならないと思ったからです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/5/1/256512.html)     更新日:2012年5月3日
 
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