(明慧日本)私は修煉を始めてから15年が経ちました。しかし最近、自分はこの15年間着実に修めていなかったことに気付きました。まだ数多くの常人の執着心があり名、利、情を放下していませんでした。まるで修めてないかのようで一度、とても悩みました。同修と交流するとき、いつも他の同修は悟りがよくて、師父から悟らせていただいていることが分かりました。一方で自分の修煉はよくなくて、師父は悟らせてくださらないと思いました。精進している同修の向上は非情に速く、彼らとの距離もますます大きくなっているようで、非常に焦っていました。
この間、なぜずっと自分の修煉がよくないのか理由を考えていました。始めは自分は根基がよくないため、悟性が悪いのだと思いましたが、師父の最近の経文『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』、『大法弟子とは何か』を学んでから、この十数年間着実に修めず、向上できなかった根本的な原因を見つけました。それは常人のすべての執着、欲望を捨てようとせず、常人の美しい生活に対する未練が強かったためでした。修煉する事で得た健康な体、活力、師父の保護により、私は常人の生活を楽しもうとしていました。また日頃、大法の基準で自分に要求せず、トラブルに出会って自分の原因を探さず、常に外へ責任を見出そうとしていました。根本的に言うと、私はまだ人になりたいと思っており、しかも修煉することにより得られた美しいものを持って人として楽しみたいと思っていました。これが私の根本的な執着でした。この根本的な執着により、私は大法弟子としての使命を認識せず、三つのことをよく行っていませんでした。
長年修煉してきましたが、最後になってようやくこの問題を認識することになり、本当に師父に、衆生に、自分に申し分がありません。師父が私たちに三つのことをよく行うように教えられたのは、それを行う過程が人から抜け出し神になる過程だからだと悟りました。
まず法をよく学び、師を信じ法を信じることです。昔学法が足りず、トラブルに出会った時、常人の観念で問題を解決しようとし、トラブルは偶然ではなく、自分の向上のため現れたのだと認識していませんでした。内に向けて自分を探さず、あるときは他人を怨み、トラブルがもっと解決しにくくなりました。今、周りの人は全部私の向上を手伝っていることを分かり、私たちは彼らに感謝すべきですが、自分はかえって怨んでいました。私は今『転法輪』を書き写しています。真剣に一文字一文字書き写していて、ひとつひとつの文字が目の前に現れ、もっと集中でき、考えがほかのことに気を取られにくくなりました。
発正念の方面も重要視し、なるべく多く発するようにしています。各空間の妨害、自分の空間場のよくない要素が多すぎで、それらを取り除かないとそれらが妨害の作用をします。発正念の数が増えてから、発正念の状態もよくなり、今ははっきりと集中して正念を発することができるようになりました。
三つのことの中で、自分にはまだ不足の部分があり、特に真相を伝える方面でよく行えていませんでした。私は真相資料と神韻CDを配るだけで、三退を勧めていませんでした。真相電話をかけても、毎日ではありません。これも自分の使命と責任に対する認識が足りないためで、まだ人の観念を放下せず、怖がる心があったからです。
ある日『転法輪』の「修煉して得道する」というこの数文字を書き写すとき、突然自分は修煉して十数年になりましたが、学法はしたものの、法を得ているわけではないことが分かりました。法で自分を指導せず、真に修煉しなければ、百年修煉しても最後には何も得られないのです。それは悲しくありませんか。人の心を捨てきってから、修煉して得道することができます。いまさら認識するようになり本当に遅れてますが、勇猛まい進して、追いついていくしかありません。