夢から醒めたら真の私が見えた(二)
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 偉大な師父は迫害が発生した後に、大法弟子みんなが神聖たる使命を抱えて輪廻した天上の王と主であると、説法の中で何度も繰り返して私たちに教えてくださいました。私にとって、これらの説法を勉強する度に師父がその都度、私を呼び覚ましていると感じていました。浮世の長い夢にいる「真の私」を呼び覚ましてくださっています。学法と修煉を続けることにより、私は真の「私」がだんだんと目覚めたと感じました。彼女が目覚めると現実にいる私は幻になってしまいます。子供の様子である「真の私」を夢の中でぼんやりと見たことがあります。蓮の台に立ち、長い髪がかかとを超えるまで伸びていました。しかし現実にいる私はもう齢不惑を過ぎました。「真の私」にとって、この体は四十数年ほど着ていた服にすぎないと分かっています。この「服」は何の超常的な能力もありません。私は正念という神通力を用いる際に、完全にこの「服」の奥にいる「真の私」が本当の念を発していたのです。私はその瞬間に「服」が突然消えたと感じました。これは私が正念を発して神通力を用いた体験の一つです。

 茫々たる人だかりの中を一人で歩いている時に、手を繋ぎ、幸せの笑顔の男女を見かけると、自分の周りの人たちとどんなに違っているのかしみじみと感じました。水が海水を通り抜けるように、常人にはその違いが見分けられません。神様しか、水が海水とはまったく別物だと分かりません。私は常人が本当にかわいそうだとよく感じます。彼らは情欲がいっぱいで、情の空と欲の海に浮かび、一生の運命が情の魔に支配されていることを知らずに喜んで甘んじるのです。私は今すでに情(色、欲)の魔に支配されることなく、この大きな魔を振り捨て、心身ともこんなに悠々自適です。「得法」、「得度」と言う度に、慈悲で偉大な師父が私たちを済度してくれた恩恵が私の心の中に満ちあふれます。

 情(色、欲)魔について、私はどうやってそれを振り捨てることができたのでしょうか。もちろんどの修煉者でも、これについて一通り試されなければなりませんが、最も重要なのはやはり法に基づいてしっかりと悟ることだと思います。師父は説法で次のようにおっしゃいました。「情から離れることができれば、あなたは人間ではなくなり、神になります。人間は情に執着していますが、実は受動的に執着しているのであって、人間は自ら進んで情に執着していると思っています」(『米国西部法会での説法』)、私は師父の説法で悟りました。人間は業力があるので、情(色、欲)魔は三界内の神様が用意した魔です、人が無邪気な子供時代と別れる時から、情魔が人体に進入し、人間を支配することができるようになります。人間の思想と肉体を支配します。情魔が人体に入ろうとする時に、人の状態を適切に表現できる言葉がとっくに用意してありました。それは「色気がつく」です。本当に天機を漏らした一言ですが、やはり謎に迷う人間が悟り難いものです。その時に身体の空間場にある一枚のドアが開かれて、情(色、欲)の魔が入りました。人はその時点から一生の間にわたって、情魔にコントロールされるようになり、後代を繁殖するほかに、この魔の支配を通して業力の債務を返済することが最も重要です。だから情のために、一生幸せになる人がいれば、死ぬまで苦しむ人もいます。気が狂う人がいれば命を落とした人もいます。もし大法を修煉しなければ、万丈浮世の中で情とは一体何なのかと見限る人が何人いるものでしょうか。人々は「世間の情とは何かと問い、人に生と死を誓わせる」と感嘆してやみません。

 私が情魔を見破った時に、魔はまだ諦めない時期がありました。私の考えがうっかりして油断すると、魔がまた私を試そうとやって来ます。しかし、魔が自分の空間場に来ることに気がつくと、真の自分が怒っている金剛像に変わり、心の中で魔を厳しく叱りつけます。「私を常人だとでも思っているのか。まさか私を翻弄させるつもりものか。勝手にここまで来るなんて。私はあなたが来るのを認めたのか。認められない迫害は法に反することを知らないのか。私にあなたを排除してほしいのか」話し終わった途端、魔はあっという間に遠くまで消えたと感じました。私の心身もリラックスしました。同修が文章で「まだ色欲の心がある」と書いているのを読むと、私はこう思います。それはあなた自身ではありません。それはあなたの「服」がまだ情(色、欲)魔の手に握られているだけで、あなたは少しでもこの「服」を恋しく思うだけでも、魔はこの「服」をもてあそぶ理由があります。あなたが求めることになるからです。常人はこうして求めるのです。しかし一人の修煉者として、もし色欲の心を捨てなければ、この表面空間に神通力が現れることは不可能だと私は思います。ですから、これは修煉者が第一に捨てなければならない心です。本当に人間と神の境目なのです。

 よく修煉できている同修たちの中に、まだ自分の体験を書いていない弟子が大勢いると思います。独自で静かに悟り、何も言わない方が心地よく、常人に言うのは面白くないと思う状態が書かない理由かもしれません。しかしこの状態から抜け出して、同修との心の扉を開くことは、無私だと思います。私は大法のネットで文章、作品を発表する同修にとても感謝しています。私はいつもたくさんのことを得ています。これも自分の不精を克服して文章を書く動力になります。さらに重要なのは、私たちが自分の神聖なる誓約を果たさなければならないということです。

 大法弟子が衆生を救い済度する神の道を歩み、神へ向かっている文章を筆で記録し、師父と大法の偉大さと光り輝きを実証したいと思います。

 (完)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/10/13/大梦醒来见真我-247774.html)     更新日:2011年11月2日
 
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