日本明慧
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情、色についての悟り 私は既婚の男性の大法弟子です。大法を修煉する前、私はインターネットから少なからぬポルノ写真などを見て、後に不潔な物質を観念としてたくさん積み重ねていました。修煉してからは、色の戒めを犯してはならないことが分かってきました。しかし、修煉を始めたばかりのころ、私は自分に対する基準が低く、顔が美しく、とてもセクシーな女性に対して、じっと見つめたり、盗み見をしたりしていましたが、別に間違っているとは思っていませんでした。心性の向上によって、これらの行為も非常に汚く、大法弟子にとっては犯罪的行為だと分かりました。 ある時期、頭の中にいつも、以前見たポルノの画面が浮かび上がり、色欲の心がうずうずして捨て去ることが困難でした。私は同修と交流してみようと、年上の男性の同修に私の状況を話しました。邪悪の妨害を暴露してから、色欲の妨害は少なくなり、正念もすぐ出てきて、私はその関を乗り越えることができました。 この方面の妨害と試練は常にありましたが、幸いにも私は心性をしっかり守ることができました。師父は「煉功者としての自覚を持っていれば、その瞬間に思い出すことができ、そして自分を抑制することができます」(『転法輪』)とおっしゃいました。肝心な時に、私は発正念を思い出し、そして、本当に師父がおっしゃったように、一瞬の間にその関を突破しました。 同修の間ではこの環境が正しく、同修に対する色の念はないと、自分なりに思っていました。しかし、最近の出来事で、私は自分に対する基準が低すぎると感じました。私たちは決して邪悪に乗じられる隙を与えてはなりません。 ある女性の同修が真剣に私と交流した際に、私の言動に彼女に対する恋慕の情があると指摘しました。私は内に向かって探し、『転法輪』「第六講」の色魔の部分の法を暗誦してみました。当時は奥深く掘り下げて探さず、私は色の念が動いていないから、問題はないと思っていました。 心性の向上につれ、自分が「情」から派生する執着を厳しく見ていないことに気づきました。これは厳粛な問題です。師父は次のようにおっしゃいました。「人間には情があります。怒ることも、喜ぶことも、愛することも、恨むことも、喜んで何かをするのも、嫌でしたくないのも、ある人について好印象をもち、悪印象をもつのも、何かをやりたいと思い、やりたくないと思うのも、すべてが情によるもので、常人とは情のために生きているものです。しかし、煉功者として、超常的な人間としては、その理で量るわけにはいかず、そこから抜け出さなければなりません。したがって、情から派生した数々の執着心に、われわれは淡泊であるべきで、最後には完全にそれを捨てなければなりません。欲も色もみな人間の執着心で、それらはみな取り除かなければなりません」(『転法輪』) 常人の観念に埋められて、情から派生した執着心を正視しないことは、向上したくなく、人との区分をはっきりさせず、神に向かって修煉しようとしないことです。私はその女性の同修に好印象をもち、意識することなく、プロジェクトの時も彼女と多く交流していました。それは執着で、正しくない行為です。大法弟子にこのような執着があってはなりません。 この情を認識する過程で、私は自分の多くの不足を見つけました。同修に指摘されて、内に向かって探しましたが、深くまで探さず、「学法も、煉功も正常にやっているから、たぶん大丈夫だろう」と思いましたが、実は自分を緩めていました。しかし、徹底的に追及すると、やはり人の一面を捨てたくなかったのです。 同修と交流する時、私は彼女の能力に対して、過度に称賛の言葉を使っていました。同修の間で称賛し合って、励まし合うことは正しいことですが、今考えてみると言い過ぎた気がします。大法を実証するプロジェクトの中で、同修との交流や接触の機会が多くなり、男女の同修間の言動が適度であることはさらに重要です。 以上、自分の不足を書いたのですが、主要な目的は邪悪を暴露して、自分の正念を強固にするほか、同修と励まし合って、いかなる環境の中でも大法に基づいて自分を量り、色魔の妨害と情の執着を取り除くということです。 不足の部分は同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
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- 人心に対する執着を放下し、師父の按排された修煉の道を歩む(三)
- 学法を真に堅持すれば必ず変化が起きる
- 嫉妬心の根源
- 法を多く勉強して自分を修め、衆生を救い済度する(一)
- 青年大法弟子「法を多く学び心を修め、正法の進展についていく」(一)
- 執着には大小なし
- 人の念は観念、正念は神の念
- 古い観念を根こそぎ取り除こう(一)
- 日常生活の中で内に向かって探して、心性を高める
- 隠れた孤独の心を修める