(明慧日本)異なる境界の生命にとって、世の中に対する認識と感じ方はまったく異なります。深く修煉していくと、心がますます純粋になり、知恵を持つようになります。時間と空間に対する認識と悟りも広くなり、修煉体験がますます真実であると感じられます。一方で、世の中のすべてが幻であるとはっきり感じることができます。
末法時期の人間社会には、おかしな現象がたくさん起こり、人間関係も希薄になり、うわべでは親切にしますが、わずかの利益のためにお互いに争ったり、欺きあったりしています。人はますますかわいそうになり、今は幸せそうに見えますが、この幸せはとてももろく弱いものなので、ほんの一秒後には不幸になるかもしれません。この中から抜け出るには、修煉者として執着を取り除くしかありません。
修煉の過程において、自身の業力、情からの妨害などにより、苦しい時も多くあります。このとき、学法をしっかりすれば、さまざまな妨害から抜け出すことができます。師父のお話をしっかり心に刻みましょう。「法は一切の執着を打破することができ」(『精進要旨(二)』「妨害を排除せよ」)学法するにつれて、執着という物質はいつの間にか消えてしまいました。
修煉の異なる段階では、問題に対する認識も異なってきます。数年の修煉を経て、再び昔の認識を考えると今は深く悟っていると実感することができました。そして、修煉者が邪に悟るのは、執着があるからです。恐れの心も執着の一つです。何かに執着しているとき、身の回りにある執着という物質が正のエネルギーを妨げ、弱めていると感じられます。そして情に対する執着があるから、非常に精進している大法弟子でも、家族に真相を伝えるときに、赤の他人より効果がよくありません。正悟というのは、常に自分が修煉者であることを認識し、自らが法の上で精進できない言い訳や理由を探すのではなく、ますます精進していくべきであると思います。
師父がおっしゃったように、「純粋で浄らかな心の状態の下で行うことこそ、最も良いことで、最も神聖なのです」(『精進要旨』「再認識」)ですから、私たちは純粋な心の状態の下で、真相を伝えて人間を救い、最後の道をしっかり歩むべきです。