生死を放下することへの悟り
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文/中国河北省の大法弟子 真潔

 (明慧日本)私は今日なんの目的もなく、ただ同修としばらく一緒にいたいという思いだけで、同修の家に向かいました。歩いている途中で突然、師父の説法「生死を放下できれば神である」(『オーストラリア法会での説法』)が脳裏に浮かんできました。これまで「死」を放下することは悟っていましたが、「生」を放下することは悟っていませんでした。例えば、刑務所で迫害されていた時、大法のためなら死んでも恐くありませんでした。しかし今日、「生」はなぜこんなにも重いのでしょうか?

 これまで、私は「生死」について、師父が修煉における「修」と「煉」の関係において、「煉」ばかりを重視して、「修」をおろそかにしているとおっしゃったように、私は「死」を重視して理解していたのです。死を放下することは難しくなく、なぜなら、大法弟子として死んだとしても、それは円満成就だと分かっていましたから。しかし、生を放下するとき、その執着心を取り除くことは心をえぐられるように骨身にこたえるものです。人間は楽に生活できるように、様々な欲望、例えば、嫉妬心、闘争心、恨みや不満、福を求める心、報復などの執着心が生じてきます。

 この理を悟ってから、私は同修の家に到着しました。ドアを開けて入った途端、同修は「あなたは私のことを知っていたのですか?」と聞きました。「何のことですか? 私は何も知りませんよ」と私は返事しました。「えっ? こんなに大きいことなのに、あなたは知らないって!」と、同修に再度聞かれました。「いったいなんのことでしょう。早く教えて」と私は尋ねました。「私は今『生死』の大難関に遭っています! 以前、夫はとても良かったのですが、最近、不倫しており、終日私を非難してばかりで、まったく別人のようです。子供はもう5才になっているのに。どうすればいいですか? 突然こんな打撃を受けて、私はもう限界です!」と同修は私に訴えました。

 私は先ほど路上で悟った「生死」についての法理を同修に話しました。同修は声を上げて泣いた後、師父の写真に合掌し、「師父、申し訳ありませんでした。ご心配をおかけしました。弟子は意気地がなく、世間に惑わされて、抜け出せませんでした」と言いました。私は「あなたは泣きたいだけ、泣いてください」と言いましたが、同修は「もう1カ月以上泣いてきました。それは辛い思い、恨み、不平などの気持ちで一杯でした。しかし、今泣いたのは、師父に申し訳ない気持ちで、自分には見込みがないという悔しい思いからです」と言いました。私は、「師父は私達を救うために、より良い修煉者になるよう、より一層高度な要求をなされます! 師父が私達のために流される涙は血の涙です!」と言いました

 同修の部屋の壁には『因縁』という詩が掛けてありました。それには、「月の満ち欠けが古今より変わらず続いているように、縁のある無しはすべて前世との関係があり、万古の神州の神の按排によるものです。世間に大法が伝えられ、人心が正されます」とあります。

 私はこれまでこの同修の家をよく訪れて、この詩をいつも読んでいましたが、今日はこの詩がいつもとは違うように感じられました。私は声を出して同修に詩を読んであげました。同修は深く感動して、「そうですね! 師父との縁、家族との縁、そして私に迷惑をかけた人との縁、偶然でしょうか。千万年待っていたのは、今日のためです! 私は元気を出して奮起しなければなりません。情を放下し、慈悲心を持って彼らを済度し、師父について天国の家に戻ります。天国の衆生は私の帰りを待ち望んでおり、私の周りの身内は私の済度を待っています!」と同修は悟って語りました。

 その時、私の目の前の同修は、今までの同修とはまったく違うように感じられました。

 この文章は同修のことを記しましたが、これはまた、私自身の深い悟りでもあります。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/11/20/249309.html)     更新日:2011年11月26日
 
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