「内に向けて探すこと」と「善意に他人を助けること」
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文/中国の大法弟子 小蓮

 【明慧日本2012年10月27日】最近、当地区の同修は「どのように同修を助けるか」という問題をめぐって、かなり意見の相違がありました。一部分の同修は、「同修に対して、特に不法に拘禁される同修に対して、不足を指摘することは相手を非難することに等しくて、相手に余計な魔難を増やすことになる」と主張して、もう一部分の同修は「誰もが理性を持って自分の不足を探すべき」と主張しました。この二つの観点をめぐって、当地区は半年にも及んで論争してきました。ここで、私の認識を話したいと思います。不足のあるところは皆さんのご指摘を仰ぎたいと思います。

 どんな時でも、相手にどんなに大きな不足と誤りがあっても、相手を責めて非難するのは人心の現れで、間違っていると思います。一方、相手に不足があるのを見た時、それを指摘しないとは限りません。「不足を指摘する」ことと「同修を責める」ことは、全く違う概念です。

 同修の縁とはなんと神聖なものでしょう! 幾度も輪廻して無数の苦難を嘗めて、大法が伝わる時に一緒に地球に来る約束までしたのは、一緒に修煉して、互いに切磋琢磨するためではありませんか!? それでは、相手が一つの執着から抜け出せないのを見て、教えてあげず、かえって彼を放任するのは、彼に申し訳が立たないではありませんか? それは真に彼のため、真に彼の修煉のためになりますか? ただ、相手を指摘する際、まず自分を探します。彼の不足をどうして私に見させたのでしょうか、私にも彼と同じような不足があるのではありませんか? それから善意をもって穏やかに彼の不足を指摘したら良いと思います。

 同修Aさんが私の不足を指摘してくれた時、私は彼のダイヤモンドのように透明な心が見えました。その心は非常に大きな威力があり、瞬間に私の不足(他の空間では腫瘍のような形で存在している)を解体しました。

 一方、同修Bさんが大きな不満を持って私を指摘した時、彼の言葉に伴って、刺がいっぱい付いた棍棒が私に向かって飛んできた光景が見えました。もちろん、Bさんの心は善意ですが、彼の心は分子からなるとても形が荒い「善」の字として現れました。Bさんの原点は善意ですが、人を傷つけやすい話し方をしたため、邪悪に弱みを乗じられやすく、間隔も作りかねないと私は思っています。

 Cさんは数人の不法に捕まえられた同修の状況をよく知っています。Cさんは、「彼らはここ一年、学法発正念をあまりしておらず、一日中、ひたすら大法の仕事をしていました。誰にも不足な点があり、彼らを『包容』してあげようと私たちは思って、彼らに何も注意していませんでした。彼らが捕まえられてから振り返ってみると、当時私たちのいわゆる『包容』こそ、かえって彼らに対して無責任なやり方なのだと痛感しました」実のところ、私はこのように思います。私たちの本当の『包容』とは、同修の過失に固執しない境地であり、同修に責任を取らないこととは絶対に等しくはありません!

 法を正す中で、修煉者一人一人の作用も大きくて、一人一人の修煉状態も大切です。誰もが自分をしっかり修めて、皆で本当に内に向けて探す環境を作ってこそ、全体としてはじめて大きな力が発揮できるようになります。

 過ちを犯した修煉者は、きっと自分の間違いを意識していないと思います。意識できれば、誰もがそれを直すからです。師父が『ロサンゼルス市法会での説法』で「すべての人がこのようにすることができれば、これに越したことはありませんが、認識できなかった問題をほかの人が指摘するのは、もちろん間違いではありません。しかし、指摘するとき、必ず善意に基づかなければなりません。あなたも慈悲を修めているので、善意であるべきです」とおっしゃったように、私たちは本当に「内に向けて探す」ことと「善意に同修を助ける」ことの間の関係をよく把握すべきだと思います。それも私たちの修煉の一部分であるからです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/10/18/264174.html)
 
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