なぜ私に大法の内包が見えてこないのか?
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2012年8月14日】雅雅さんは若くて、非常に精進している同修です。最近、彼女はある観光地で真相を伝える活動に参加し、以下のような経験をしたそうです。彼女は、一部の同修は真相を伝える過程で明らかな人心、闘争心、急いで結果を得ようとする心があることに気づきました。そして、その同修たちによって真相を伝えられた常人は真相を分かるどころか、大法を誹る対立側に立つことさえありました。

 雅雅さんは言いました。「このようなことを見て、非常に心苦しかったです。ここで真相を伝えることは、師父が私たちに下さった修煉のチャンスですが、同修たちは自分自身をよく修めていないので衆生を救うことができず、却って相手を反対方向に押し出してしまいました。私はその間、ずっと発正念をしていました」

 また、別の日に、三人の常人が雅雅さんの近くに寄ってきて、いきなり罵声を上げ、雅雅さんと同修のことを売国奴だと言い、中の一人が雅雅さんに、海に投げ込むなどと脅迫もしてきました。

 雅雅さんは心を動じず、相手にこう返事したそうです。「あなたに罵られても、あなたを罵り返しません。私は教養が高いからです」相手はこれを聞いてもっと怒り、「教育を受けたのはおまえだけなのか」と怒鳴りつけてきました。雅雅さんは、なぜ私はそう多く発言しておらず、穏やかな気持ちで言ったのに、相手にこのように対応されないといけないのか、これらの常人の背後にある邪悪の要素が多すぎると思いました。

 また、雅雅さんは同修に次の質問をしました。「なぜ自分が問題に遭遇した際、法理がはっきり分かっている同修と交流すれば気持ちがよくなり、心も軽くなるのでしょうか? 恐らくこのような同修は普段から法をよく学んでおり、深い法理も見えているからだと思います。それなら、なぜ私は大法の内包が見えてこないでしょうか?」

 ある同修が彼女に答えました。「法の内包が見えている同修は自分に厳しく要求し、いつも無条件に内に向けて探していますが、あなたはできていますか? あなたが言った真相を伝える過程において、あなたは自分自身の内に向けて探した様子がなく、どれもが同修がいかによく修めていないとか、常人の背後にある邪悪の要素が多いなどの話で、あなたが最も良く、最も正しいと言っているようです」

 雅雅さんは戸惑いながら聞きました。「それなら、私はどのように内に向けて探せばいいのですか? どう見ても他人が間違っています」

 交流は続きました。「まず一つ目の出来事で同修の不足に気づいたあなたは、自分を見ずに、自分にも修めるべきものがあるのではないかと考えず、同修の出来の悪さに不満をぶつけました。あなたが学法しているのは、自分を修めるためでなく、同修の出来具合を量り、不満を言う理由を見つけ、そして自分を修めない言い訳のためのようです。あなたの話の中で、一言だけ、『ここで真相を伝えることは、師父が私たちに下さった修煉のチャンスです』と言って内に向けて探したように見えました。しかし、ここで言及された内に向けて探している『私たち』の中には、明らかにあなたが含まれておらず、あなたを除く他の同修たちが主体でした」

 「二つ目の出来事において、雅雅さんは常人に罵られた際、まず思いついたのは大法を実証するではなく、自分を実証しようとして、「私は教養のある人だから、あなたと無駄な議論をしません」と思いました。実際そうではなく、自分は大法を学び、師父から『殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない』(『転法輪』)と教えられたので、あなたと同じように振る舞ってはならず、私は法輪功修煉者だからだと考えるべきです」

 真の修煉者として、まずすべきのは無条件に内に向けて探し、正念を持って問題を考えることです。「皆さんが物事を観る時、今までのようにその中に陷って判断し、その具体的な物事の中でその事に即して論じるようなことをしてはならず、そこから抜け出して観察して、それが真・善・忍に符合しているかどうかを判断すべきです。もし修煉の良くできた人、或いは神や菩薩がこの事を前にしたら、どう扱うのでしょうか。このように考えると、正念が出てくれば、すぐ分るはずです」(『米国法会での説法』『ニューヨーク座談会での説法』) 内に向けて探すことができないとき、師父の法のこの部分を思い出してみてください。もし今日、この場にいるのが雅雅さんではなく、一人の神、一人の菩薩なら、どうなるでしょうか?「それなら、このようなことも発生しなかったでしょう」と、雅雅さんは言いました。そうですね。同修達も明らかな執着を見せなかったでしょうし、常人も反抗する様子を見せなかったでしょう。それなら、誰が間違っているのでしょうか? やはり自分がよく修めておらず、法の要求に符合しなかったから、これらの出来事が自分の目の前で発生したのでしょう。「正しいのは相手で、間違っているのは私です」(『洪吟三』「誰の是非」)外部に原因を探し求め始めたら、発正念の動作をしても、発しているのはすでに正念ではありません。真に内に向けて自分の問題を探し出して、それからどうすべきかの問題です。「自分が間違ったから、事がねじれ、他人ともねじれてしまい、全てがおかしくなり、人間関係にも問題が起こります。この時、自分の原因を探り、自分のよくないところを正せば、全てがまた平和になり、順調になります」(『スイス法会での説法』)本当に無条件に内に向けて探す時、奇跡が起きます。つまり「相は心により生じ」、状況も心によって変わるのです。

 一つ目の事例で、私たちは慈悲を持って同修に接し、相手の問題に気づいたら、適切なタイミングで善意をもって指摘し、同修が必ず心性を高めていけると信じるかどうかがポイントだと思います。

 二つ目の事例で、私たちは師父が法で中でおっしゃった「誰にも佛性がある」ことを信じ、人の正念、善念を啓発し、その生命を救えるかどうかがポイントだと思います。

 これらの過程は私たちが内に向けて探し、自分を修める過程ではありませんか? 事を成す際、真善忍を原則として自分に要求し、事を成すこと自体が目的ではなく、何一つ人心を持たず、「成して求めざれば」(『洪吟』「道中」)が肝心だと思います。

 以上の二つの出来事において、雅雅さんは内に向けて探さず、同修の不足ばかりを見て、常人の非を探し、事を成す過程で得るべき昇華が得られず、最低限、この問題において彼女は元の次元、レベルに留まっていたのです。これで、どのように更に深い、更に高い法理が見えてくるでしょうか?

 学法と交流を通じて、雅雅さんは修煉の過程において自分の問題を見つけることができたことを嬉しく感じ、そして今後、いかにして自分の使命と誓約を果たせるかが分かったようです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/8/10/261377.html)
 
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