内に向かって探すには確実な修煉が必要
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 明慧日本201281日】こ半年、ずっとある現象に困惑ています。一部の同修は三つの事をよく行なっていますが、しかし病業や家庭の問題において、あるいは同修とのトラブルにおいてよく乗り越えられず、人身を失った人も出ており、衆生を救い済度することに大きな損失をもたらしました。この状況を見て、焦った私は「大法のことを仕事だとみなしていて心性を高めることを重視しなければ」などと思うのですが、しかし、かえって同修間の間隔を増やして、法を正す道に人心の妨害を与えてしまいました。

 例えば、ある同修は真相をたくさん伝えていて、資料もたくさん配っていて、正念がかなり強いので私は深く自分を恥じました。しかし、彼は家庭においてよく行なうことができ、知らない字もあるため、自分で法の勉強できないので、同修自身も焦っていました。同修に漏れが出たとき、真相を知らない人に通報されましたが、同修は正念を持って乗り越えたので、邪悪に隙乗じさせませんでした。同修は無事に戻ってきましたが、私たちは同修が心を静めて悟る必要があると判断したため、真相資料を与えませんでした。しかし、これを知った同修はとても腹を立てて、これは協調の責任でもあるので、なぜこの事に関与しないかと不満を抱えました。この事について同修の間に異なる意見生じました。私自身もこのようにすることが良いか悪いか分からず、人を救い済度するためには自分が間違っているようでが、同修に責任を持つこと間違っていないと思いました。ほかの同修との交流の中でも、同じく三つの事においていかに行うかはみんなが知っていますが、しかし、家庭の難関や病業に関してはとても困惑しているようでした

 実はトラブルが来たとき、表面の是非を見るのではなく、まず内を向けて自分の執着を探し、本当に自分の執着を放下してから再びこの件とこの件に関わる相手を見ると、表面のトラブル成り立たなくなり、解決しやすくなります。

 最近法の勉強と同修との交流を通じて、同修は真相を伝える時、みんな心に法があり、自分衆生を救い済度していることをちゃんと分かっていて、そして正念を発して邪悪を取り除き、共に恐れる心を放下し、師父の言うとおりに出来ていますが、しかし病業や家庭の関や同修間の心性の摩擦においては法に基づいて自分を測っていません。内に向けて探すが分から、自分の周りで起こっている、これらの事心性を高める機会と見なしておらず、時には妨害と見なしているため、更に悟りにくくなります。

 個人的には師父は私たちに必ずどのようにやらなければならないと要求しておらずそれはすべて私たちに悟らせ、自分で修めてもらうためだと認識しています。『西遊記』の中の三蔵法師ら4が、法を求めるために通過した過程を経なければ円満成就できなかったように、私達三つのことをよく行なう事も同じだと私は思います。例えば同じ西方へ法を求める道を経験しても、心性の修める程度の違いによって、得た境界と結果も違います。八戒の事も一つの例、彼は妖怪に捕まえられたり、叩かれたり、殺されかけた時もあって、師徒4の中で経験した多くの魔難も彼と関係があるようで、彼は多く苦労し、たくさん力を入れましたが、最後終点に到着した時、過程で表れた執着心ほとんど取り除かれておらず、色欲心、怠ける心、食べ物への執着心、寝る執着心と機会があればすぐ常人の事をやりたい心など、今日の私たちへの戒めではないでしょうか? 形式的には責任と難度が違うのですが、執着心を放下しなければならないのは同じです。

 われわれは迫害に反対しているから、自分の心性を確実に修煉することを軽視してはいけません。師父は『転法輪』の中で「あなたに一つの真理をお教えしましょう。絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」と説かれました。『精進要旨』真修の中で師父は「真に修める弟子よ、わたしがあなたに教えたものは佛を修め、道を修めるための法なのです。皆さんは常人の中の利益が損なわれたことによって、わたしに苦を訴えており、自らの常人の中での執着心を放下できないことに苦悩しているのではありません。これが修煉なのでしょうか? 常人の心を放下できるかどうか、これは真に常人を超えることに向かっていくための至難の関なのです。真に修める弟子であれば誰でも超えなければならないもので、これは修煉者と常人の境界線です」かれています。

 今日の話を通じて同修観念転換する助けになればと思います。不適当なところ慈悲に指摘を願います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/7/12/260100.html)
 
関連文章