内に向けて探す習慣が身に付いた
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文/中国の大法弟子

明慧日本2012925日】

 一、独りよがりの心を取り除き、口を修める

 独りよがりの心は私に比較的強く表れました。まるで自分が何もかも分かっているかのように、いつも自分が正しく、他人より賢いと思い、他人の話ややっていることは不完全だと思い込み、上からの目線で他人に教えることが好きでした。もし自分の意見に従わず、あるいは自分と意見が違う時は、心中穏やかでなく、時に怒ってしまいます。この心はすでにもう自然な状態になっていて、他人が話しているのに、胸の中はすでに不満で沸きかえり、すぐに相手の話を断ち切って、一刻も早く自分のいわゆる正しい見解を発表したいと考えてしまいます。

 妻は何回も鋭くこの心を指摘してくれましたが、すぐに内に向けて探さず取り除きませんでした。「天地行」の技術フォーラムに書き込みをするとき、お互いに知らないので、あまり相手のことを考慮せず思い切って率直に話せるので、自分の独りよがりの心が衝突したとき、この心は文字の形で残りますので、自分にもはっきり見えてきました。この心は想像に任せて結論を下し、主観的に推論し、自分を実証して、話す態度も穏やかでないなどの形で表れてきました。

 法を実証し、真相を伝える中で、この心はよくない作用を働きます。例えば、真相電話をかけるとき、一時期、明慧ネットに載っている録音電話の内容について自分は違う考えを持っていました。この話は衆生が受け入れてくれるはずがないとか、この話は最後にもってくるべきではないなど、自分の観念が阻害の作用が働きました。自分さえ認めていないものを、どうして衆生が根気よく聞いてくれるでしょうか? 真相を伝える過程も修煉の過程なので、この抵抗する観念は本当の自分ではないと認識して取り除いた後、真相を伝える効果もよくなりました。

 今この心を認識できましたので、それを取り除くべき時期になったということになります。今は論争が現れてきたら、すぐに無条件に内に向けて探し、正しいか間違っているかに関わらず、口を修めることに注意しています。話をしても、まず謙虚になり、語気を穏やかにして、誠意を持って十分他人を尊重し、確かな根拠を持って話をするようにしています。

 言葉は内心の声であり、口を修めることは即ち心を修めることなので、心性の高さは話と行動から見分けることができます。2007年、警察が拷問をして私に自白を強要したとき、人間のものを放下できず、話すことも法に基づかず、何も提供しないことを守れなかったので、邪悪の迫害に遭ってしまい、教訓は極めて深刻なものでした。

 今振り返ってみると、主な原因はやはり法の勉強ができていないことでした。迫害を受けたときや、トラブルが発生したとき、師父の法を思い出すことができれば、内に向けて探し、自分を高めることができたに違いありません。今私はこの面で大きな進歩があったと感じましたが、続けていく必要があります。

 二、顕示心を取り除く 

 表面上では謙虚にしていますが、潜在意識の中で自分を顕示する心がまだ残っています。無意識に他人と比べがちで、異なる次元の法で自分を照らすことをしませんでした。交流するとき、根気よく他人の発言を聞くことができず、いつも話を断ち切り、早く自分の見解を発表したいと急ぎ、新奇をてらうのが好きでルールを守りません。それを制御するため、主意識に多く聞き、多く考え、謙虚に他人に教わり、具体的に事を行なうとき他人と協力して、自分の観点を過度に強調したり、堅持しすぎたりしないように注意しています。

 三、嫉妬心を取り除く

 修煉してから、自身に嫉妬心があることを見つけました。大学時代、同じ寮に住んでいたクラスメートたちが仲良くしているのを目にすると、やきもちをやいて悲しくなったことがあります。みんなで一つの問題を検討しているとき、ある人がよい案を出して、他の人が褒めた時、自分は内心から褒めたくなく、あら捜しをしてしまいます。師父は『転法輪』の中で嫉妬心の問題を単独に取り上げられたので、自分に照らしてびっくりしてしまいました。

 今日まで修煉してきてもやはり嫉妬心があります。執着心は自分で気づいてこそ取り除くことができるので、法の勉強を通して自分の行為を照らし、法で自分の一念一念を測ることによって、以前気づかなかった隠れた嫉妬心を見つけることができました。

 四、色と欲を取り除く

 師父は『転法輪』の中で「欲も色もみな人間の執着心で、それらはみな取り除かなければなりません」と説かれました。欲と行為の間の関係、また行為があればイコール欲もあるということになるかどうかは一定の段階で困惑を感じました。同修たちが考えを述べた後、最初あまり認めることができませんでしたが、まだ自分がそこまで到達していないだけでした。認識と心性を高めることにより絶えず昇華して、その境界に辿り着いたとき自然にできるようになるので、人為的にやめるのではなく、しかし人間の一面では努力が必要です。重視すれば、乗り越えることができ、関に直面するとき、たった一念でも非常に重要になってくるので、どのような基準で自分に要求するかによります。緩めてしまえば、人間の理に従ってしまいます。その過程でもう一つの求める心、人為的に結果を追求する心が生じやすいのです。修煉は非常に厳粛なものです。

 五、自我のための観念を取り除く

 修煉してから、自我のための観念が師父を信じ法を信じることを阻み、完全に大法の要求と基準に照らして実行することができず、いつもその通りに行動しなくなり、あるいは特別な何かをしてしまいます。特に圧力の前で、この心が次第に出てきます。修煉するにつれ、この観念が無条件に法と同化することを阻んでいることに気づきました。

 自分の成長の過程と関係があるのかもしれませんが、私は小さい時から成績がよく、会社に勤めた後、出世も速かったので、優越感があります。命令を出すことは当たり前で、他人が自分の言う事を聞かないと気がすみません。自分を特別な存在と思う故に自分への要求も緩んでしまいます。潜在意識の中で自分は大衆と違い、特別扱いされたく、優越感を求め、他人が守らなければならないことも、自分はそんなに厳しく対処しなくてもよいと思っていました。

 みんなにやってもらうことを自分はしなくてもよく、誰かが提唱することに対し、自分は往々にして色々な言い訳をつけて積極的に協力しません。自分勝手に上手く立ち回り、新奇をてらいます。いつも外に向けて他人の欠点や執着を見つけますが、情にとらわれて善意をって指摘することができず、同時に内に向けて同じような執着があるか否かを探すこともできません。実際は完全に自我を放下することができず、徹底的に自分を変えたくなく、無条件に大法に同化したくないということになるので、執着を放下するときいつも余地を残して、長引いてしまい、甚だしきに至っては法から口実を探して、自分の正しくないところを隠してしまいます。

 師父と本当の家に戻りたいのですが人間のものも放下したくなく、できるだけ自分の趣味を残したいことにもなります。例えば、圧力の前で生死を放下できず、全面的に旧勢力の按排を否定できません。思想的にも行動的にも邪悪に妥協する要素があるので、固く法を護ることもできません。

 『明慧週刊』第498回に「自分自身に存在する法を正すことへの抵抗する要素を取り除く」という文章が掲載され、心を打たれました。私はきめ細かく自分を分析し、自分の内にも存在していることが分かりました。さきほど取り上げたように、これらの変異した観念は旧宇宙の生命と共に存在しており、自我のためのものです。これはつまり私(し)の表れですが、往々にして自覚できないので、よく弁別しないと分かりづらいのです。これも自分が関を乗り越えるたびに長引き、後で後悔してしまう原因であり、厳格に言えば本当の自分を見分けることができずに、習慣的にこれらのものを自分の一部だと思い込んでしまいました。

 誰でも自分が師父を信じ、大法を信じていると思っていますが、誰かに自分が100%師父を信じていないと言われたら、内心はみな気分が悪くなります。しかし、よく考えてみると、行動できていないことを棚に上げて、自分の内心も根本的に完全に法を正す要求通りにやろうとしません。しかも、この点について人間の一面は直視したくなく、考えたくなく、認めようとすらしないのですが、実際はまったくその通りです。

 今までこれらのことに対して意識すらしませんでしたが、今回交流文を書くことを機会に自分の思想をよく整理しました。これらのものは顕示心や独りよがりの心などに比べて分かりにくいので、分別しにくいのです。しかし真に理性的に大法で測ったとき、自身に存在するこれらの法を正すことに抵抗する要素が見えてきて、次第にそれらを見分け、徐々に取り除いていった時、体も軽く感じました。今後の修煉の中で続けてそれらを全部なくなるまで取り除いていきます。

 六、自分の家族に慈悲に対処すべき

 妻は真相を分かっているので、私の修煉も支持してくれますが、ただ数年前の迫害により恐怖心が残っています。旧勢力が加えた迫害のため妻はなかなか修煉の道を歩み出すことができません。一度、真相を書いてある紙幣を妻に没収されたとき、私は何も言いませんでしたが、最近再び同じ事が起こりました。内に向けて探すと、やはり自分が言うべきことを言わなかったことは、妻に責任を負わない態度でもあると認識しました。

 妻に、この行為は邪悪の立場に立っており、私への妨害でもあり彼女自身への妨害でもあると伝え、その後彼女も私の言うことを納得し、真相紙幣を返してくれました。この件を通じて、家族への関心も法に基づき、彼らのために考慮することも彼らのためであり、大法弟子にあるべき善だと思いました。

 七、もっと力を入れて衆生へ真相を伝えよう

 一年前、携帯電話を利用して真相を伝えるプロジェクトに興味を持ち、これなら地域に関わらず真相を伝えられ、今は携帯電話も普及しているので、受ける側の受信料もただで、技術的にも問題なく、衆生はどこにいても真相電話を聞ける可能性があります。このプロジェクトは順調に進んで、携帯もいくつか更新して、真相を伝える効率も更に高まりました。

 八、主意識を強める

 発正念は師父が私たちに要求されている三つのことの一つですが、しかし、私は発正念をするときに手が倒れ、蓮花手印のときも手が合掌してしまいます。蓮花手印が正しくなかったことも、今年同修に指摘されました。

 煉功のとき、常人の事を考えてしまい、完全に「身神合一」の状態に達していません。これらの問題は自分でも意識しましたが、主な原因は自分が固く妨害を排除せず、主意識が強くないことに原因があります。今は自分を厳粛に対応したら、すぐに明らかに効果が出ました。肝心なことはこれからずっと堅持していくことです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/9/18/262910.html)
 
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