文/瀋陽の大法弟子
【明慧日本2012年10月21日】法を学んで着実に修煉すれば、執着心がなくなり、執着の現れすらなくなると私は悟りました。執着心があるからこそ修めることが必要で、これこそ着実な修煉の過程です。同修が修めた良い面を見ることは私にとって一種の鼓舞であり、私達全体の正念が強くなり、私自身ももっと向上できると思います。一方、同修の良くない面を見た時、それは同修がまだ修めていない良くない心の現れであり、私にとって鏡のような存在で、私の不足も実はそこにあり、これはきっと自分が修めて、無くさなければならない部分だということを、くれぐれも覚えておきましょう。師父が私の執着心をなくす機会を与えて下さったのであって、同修の悪いところを指摘する機会を与えたり、ただ人の不足を見せるだけのものではありません。
法理に従って、内に向けて探して初めて、着実に修煉できると私達はわかっています。修煉の近道は、真に内に向けて探す機制を作ることが一番でしょう。これは口で言うことではなく、真に法に従って悟らなければなりません。
師父は『精進要旨』「時間との会話」の中で「彼らが相手のどうこうを見るときの目で、逆に自らを見ることができれば、と思います」と説かれました。
普段の生活の中で、強い意思で正念を持って自分の考えを正し、毎日少しずつ進歩すれば、自然にその機制も出来上がります。そうでなければ、何かあったらそれが自然であるかのように人を見てしまいます。私達が見守り、指摘することで、同修が修煉できるわけではありません。往々にして、同修の不足を見て、すぐに自分と照らし合わせないまま長くなってしまうと、考えの中に良くない物質がますます多くなります。すると私達全体の環境の中に良くない場が生まれ、同修との間に隔たりを作ってしまいます。そのため、私達は強い全体になることができず、衆生を救い済度する力も足りなくなり、下手をすれば自分の先史の誓約も果たせなくなります。私達は大法の中で修煉する以上、師父は必ず私達の執着心を全部晒し出して見せてくださいます。私達がしっかり着実に修煉する機会さえ把握できればよいのですが、往々にして同修のことを自分と対照しながら修めなければ、その機会は無駄になります。
師父は法を世に伝えられた当初、色々な人心を見られて、洪大な慈悲をもって私達を蘇らせました。私たちは自分に対して、自分自身の次元で悟った法理に従って自分を律し、同修には寛容でなければなりません。特に今日までやってきて、同修は皆良い面があり、それなりに法を実証しています。まだ修めていない、良くない面はこれから修めて良くなるのであって、円満成就までずっと残っています。同修に不足があるからといって、その人が着実に修めていないとは言えません。私に言わせれば、これこそ私たちにとって修煉の良いチャンスです。毎回の説法でも師父は「内に向けて探すように」とずっと説かれています。今後何かあったら、第一念は必ず自分を振り返ってみましょう。
六道輪廻の中に埋もれて、悟性も悪くなったため、外に向けて見ることは、私たちの強い観念になってしまいました。私達は知らず知らずにこの観念に動かされて、さらにその観念自体を自分と勘違いしました。この観念は私達を迷わせる一種の物質であり、生きているものですから、それを排除しない限り、私達はそれに取り付かれて、ずっと外に向けて探し、ずっと同修の不足を見つめます。その物質は必死に私達をコントロールしますので、絶えず「あなたが正しい、彼は着実に修煉していない、彼は内に向けて探さない、あなたの認識は高い、あなたこそ着実に修煉している」などと、私達の頭の中へ注ぎ込みます。師父の大法は私の目を覚まさせ、この悪い物質を認識させてくださいました。私がここまで書いた時、頭が痛くなりました。これは、その物質が必死に自分を守って、私に書かせないようにしており、私が書いたらその物質も消滅されると私は思いました。
もう一つ言いたいのですが、執着心があることを恐れてはいけません。いっぺんに執着心を失くすことは出来なくても、それは努力によって少しずつ消すことができます。くれぐれも自分には執着心がないと言わないでください。なぜかと言うと、そうするとその執着が自分と一体であることを認めてしまいます。それでは永遠に無くすことは出来ません。その執着をずっと抱えていれば、最後に自分に期待している衆生を裏切ることになります。