邪悪の迫害を否定できるようになった(一)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2012年9月6日】私は幸運にも1998年8月に大法の修煉を始め、心身共に恩恵を受けた経験がたくさんあり、毎日、師父が導いてくださっていると感じていました。それから半年後の「4.25」が発生する前夜、同修の皆さんと一緒に教育学院へ陳情に行った時から、大法を実証し保護する道を歩み始めました。

 睡眠時間に挑む

 1999年7.20、中共(中国共産党)当局が迫害を開始したため、私は数回、不当拘禁や労働教養を宣告されました。その時は堅実に法を学ぶ基礎ができていなかったため、問題に出会った時、内に向けて修めることを知らず、各種の人心や執着、観念を抱えながら、常人のやりかたで迫害に抵抗していたため、邪悪に隙に乗じられました。

 刑務所を出所してから、法を多く学んで損失を補い、法を正す進展に追い付きたいと思いましたが、邪悪な旧勢力は、家庭に多くの魔難を按配して妨害を加えました。まず、私が刑務所から出所する前に、夫は脳血栓を患い、半身不随になって自己管理もできませんでした。私は家に戻ると、出産を控えた娘の世話もしなければならず、また、理智を失った夫に罵られながらも回復するように体を動かしてあげました。一方で出産後のの世話もしました。この状況下で常人の観念と情に対する執着を放下できなかったため、各種の人心の衝突の中で、時々自分が修煉者であることを忘れました。

 また学法の時間がないため、大法弟子がやるべき三つのこともできず、疲れ果てていた私は焦り泣いてしまいました。その回数は数えきれないほどで「これは私が歩むべき道ではない、私は大法弟子だから三つのことをやりたい」と大声で叫びました。私は、正念を発して邪悪のこの迫害形式を否定することにしました!

 数カ月後のある日、私は疲れきって床に座り込み、目の前の困難な状況をどうやって突破できるかが分かりませんでした。私が「修煉したくないのではなく、時間がないのです」と考えると、突然、左肩の後方から「睡眠を減らして時間を作ろう」と鐘声のような声が響きわたりました。私はすぐに座り直し「これは師父のお告げだ」と分かりました。しかし、考えてみると「海外の同修たちは法を実証するために毎日2、3時間しか寝ないのに、寝る時間を更に減らして大丈夫なのか?」と私は迷いました。しかし「私は愚かだな・・師父は自分の人心や執着心を探して、取り除いてほしいのではないか?」と思いました。

 私は、睡眠を減らして時間を作る決意をしました。それから毎朝、全世界の集団煉功に参加して、現在まで続けてきました。その期間、師父はご苦労が多く、師父は毎日のように私を呼び覚ましてくださいました。私は師父のご恩に感謝し、自分を奮い立たせて精進しようと決心しました。睡眠時間を含む全ての時間を利用して、多く学法しました。

 内に向けて探すことを学ぶ

 ある日、孫が昼寝をしたので『転法輪』を持って読み始めました。これまでの私とは違って、あわただしく家事を終わらせて法を学び、煉功しました。それからは毎日、孫が寝ると家事をやり、晩御飯の準備をしました。なぜかというと、子供たちによく食べさせるためにおかずの数に執着し、毎日買い物をして作りました。朝から夜まで忙しく、一日が終わると疲れ果て、学法するにも正念を発するにも元気がなくなりました。朝3時半からの煉功も、起きられなくなり、時には起きてもまた寝てしまうことがありました。

 私は熟睡している孫を見守りながら、心を静めて本を読んでいると、突然一段落の法が特別に目立って見えました。「『修・煉』の二文字の中で、人々がその煉しか重視せず、修をおろそかにしていることにあります。あなたは外に向かって求めても、何も得られません」、「それはつまりあなたは内に向かって修めなければならないということで、外に向かって探してはなりません」(『転法輪』第一講「煉功してもなぜ功が伸びないのか」)

 私はやっと悟りました。いままでの私は外に向かって探していたのではないか? 夫は邪悪に操られて私を苦しめていたのではないか? 旧勢力の妨害・迫害を正念を発して取り除くことは間違いのないことですが、なぜ邪悪に妨害できるのだろうか? まさに自分の人心や執着心が隙に乗じられたのでしょう? 内に向けて探さず、自分の人心を修めないで、どうやって乗り越えるのでしょう? 外に向かって探して、どうやって邪悪を否定することができ、妨害を取り除くことができるのでしょう?

 その後から私は、『転法輪』を読むたびに、全ての内容を心におさめました心性を向上させる法理が現れてきましたが、全てがこれまで悟れなかった内容でした。私は「三つのことをやる時間がない」と悩むこともなくなり、かえって遭遇した大きな事や小さい事、嬉しい事と望ましくない出来事に出会った時、自身の人心や執着心と観念を掘り出すことにしました。私は同修に「どうして自分にこんなたくさんの人心と観念があるだろう」と言いました。修煉とは何かが今、分かりました。それと同時に、修煉の素晴らしさと美しさも感じるようになりました。

 そこで三つのことも自然とできるようになり、真相を伝え衆生を救い済度する機会もすべて師父が按配してくださったもので、私がやるのを待っていらっしゃるようです。効率も倍以上によくなりました。今の私は、真に修煉の道を歩んでいると自覚しました。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/8/25/261988.html)
 
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