文/中国の法輪功修煉者
【明慧日本2014年2月16日】子供の頃からよく観ている「西遊記」によると、三蔵法師一行は目的地に辿りつく直前、丸木橋を渡り、底のない船を漕ぎ、一つの川を渡るという難関を乗り越えなければなりません。それは、佛陀が肉体まで放下できるかどうかを試すために、三蔵法師に与えた最後の試練でした。三蔵法師はなかなか渡る勇気がなく、躊躇っているうちに孫悟空に底なしの船に突き落されました。そうすると三蔵法師の肉体が漂ってゆき、そこに大きな神の体が現れてきました。三蔵法師はなぜ渡れなかったのでしょうか。そこにまだ人間の観念が残り、信じられなかったからではないでしょうか?
中国の北部にある小さな町に行ったとき、現地の同修は地元のすべての世帯に真相を理解してもらえるように、真相を伝えることに成功していました。人を救い済度するための真相ステッカーは、津々浦々に貼られていました。大きな町、細い通り、あらゆるマンションのエントランス、とにかく場所的に許されてスペースさえあれば、「法輪大法は素晴らしい 真善忍は素晴らしい」の文字がしっかりと書かれていました(約1平米の大きさ)。型抜きの版にスプレーでペイントされたようで、時間が経過してもとてもきれいに保たれ、現地の同修の全体の修煉状態と心性の境地が表われていました。心が落ち着いていなければ、慌てている中ではとてもあんなきれいな字が書けるはずはありません。師父のおっしゃった通りに、「人の居場所なら至らないところはない」(『精進要旨三』人心を放下して衆生を救い済度する)でした。
当時の私は、地方の同修のやることに対して正念をもってみていませんでした。何となく羨望と崇拝の気持ちのみが記憶に残っていました。今になって改めて考えてみると、修煉者の根は、師父のおっしゃった法理に対して、完全に信じているかどうかという大きな問題です。師父は、「真相を伝え衆生を救い済度することに旧勢力はあえて反対できません。肝心なのは、何かをする時の心構えにそれらに付け入る隙を与えないようにすることです」(『各地での説法二 二〇〇二年ボストン法会での説法』)と、「あなたが真の修煉者であれば、われわれの法輪が守ってくれます。わたしは根を宇宙に下ろしているので、あなたを動かせる人がいれば、このわたしをも動かすことができることになり、はっきり言って、その人はこの宇宙を動かすことができることになります」(『轉法輪』)と説かれました。大法弟子が信じられるかどうか、実践する勇気があるかどうか、実証する勇気があるかどうか、全ての根源はそこにあります。一般人から修煉者まで、そして天上の神々にとっても、師父が伝えられた「天理」を信じられるかどうかということなのです。それは全ての命にとって未来における自らな位置を選択する過程でもあり、非常に厳粛で、ひとかけらの曖昧さも許されないのです。
自ら歩んできた道と昔の同修が遅れた過程を振り返ってみても、全体の協調が必要とされた時をみても、良くできたときは「師を信じ 法を信じる」ことができていたからです。つまずいた(遅れをとった)時は、師と法を心の奥まで揺るぎなく信じることができず、正念をなくした時です。修煉者として、常人社会における天が崩壊し、地が陥没すうように様々な災難に直面させられても、師父と大法を信じていれば新旧宇宙への交替という大きな節目は、必ず乗り越えることができます。
法に符号しないところがあれば、同修によるご叱正をお願いいたします。師父と同修に感謝いたします!