文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年10月15日】ある日、私は自分が書いた文章の添削を同修に依頼しました。同修は、「文章の中で『宣伝』という単語が多く使われています。これは党文化です。『九評』と『党文化を解体する』を読んでみては如何でしょうか」と言いました。私は即座に「それではお互い、内に向けて探して見るべきですね」と答えました。同修は一言も言いませんでした。
帰宅後、私は同修の提案に従い、2冊の本を読んでみました。照らし合わせてみると、自分には党文化が大いにあることに気づき、闘争心、狡さ、嘘をつく等々がありました。その同修には本当に感謝すべきです。しかし、当時の私はなぜ即座にそのような返事をしてしまったでしょうか?
他人から指摘されて「お互い、内に向けて探して見るべきですね」と答えた私は、根本から自分に問題があると認めたくなく、相手の意見を受け入れようとしませんでした。私は指摘された時、すぐに怒ってしまったり、弁明したり、自分の事を強調したりはしなかったものの、この一言で問題を相手に押し返してしまいました。本質的にはもっと狡猾で、もっと深く隠れていて、もっと気づきにくい「他人に指摘されたくない心」が作用していたのです。
それでは、なぜ私は他人に指摘されたくなく、何を排斥していたのでしょうか? 意見を言ってくれた同修は私の問題を発見し、不足を修正するために助けてくれていたのです。自分を修めることはまさに過ちを認め、過ちを改めていくことです。もし私が問題を認識したくないのなら、どのようにして修めていくのでしょうか。着実に修めたくないから問題から逃げたのです。私の排斥はまさに向上の排斥で、昇華と返本帰真を排斥しているのではありませんか? 修煉の中で、タイムリーに自らを反省し、改め、執着を取り除いていかないと、次元の向上や果位の昇華が得られず、硬化した観念の中で徘徊するしかありません。
また、この「他人に指摘されたくない心」はどこから来ているのでしょう。人間の本性は忍耐強く、度量が大きいものです。修煉を通じてその本性に戻り、誰に何を言われても気に留めず、過ちを指摘されれば喜ぶはずです。その敏感で言われたくなく、反抗的で、外に向けて探す後天的な観念を取り除いて初めて返本帰真できるのです。
それに、大法の修煉は人心を直接指しています。交流の際、同修に何かを言われた時、もしかするとそれは師父による教示だったかもしれません。師父の教示を聞かず、自身の問題を取り除かなければ、もっとも喜ぶのは旧勢力であって、それらは隙を狙い、私が大法から遠ざかるような按排をするでしょう。旧勢力はまさに自分を変えたくなく、他人を変えようとしています。私が自身を変えたくなければ、旧勢力と本質的に何の違いがあるでしょう?
師父はこのように説かれています。「くれぐれも気をつけてください。これから、人から言われたくない人は、つまり精進していない人です。人から指摘されたくない人は、その人が表しているのは修煉者の状態ではありません。少なくとも、この点に関してこのように言えます。(拍手) この関をこれから乗り越えられない人がいれば、皆さんに教えますが、それは大変危険なのです! なぜなら、それは修煉者にとって最も根本的な問題で、最も取り除くべきものであり、必ず取り除かなければならないものだからです。取り除かなければ、圓満成就することができません。常人が大法弟子のことを行なっているようなことにならないでください。皆さんは圓満成就するためであり、福報のためではありません」[1] 「マッチのように、こするとすぐに火がついてしまい、地雷のように、踏まれるとすぐに爆発してしまう人がいます。指摘されてはならず、言われると、承知しません。どんな意見も聞き入れられず、善意の、悪意の、意図的、または無意識的な指摘に対して、すべて受け入れられません。内に向けて探すことはなおさらしません。かなり深刻になっています。これは皆さんのせいではありません。今から、皆さんはこのことに気をつけるべきです。誰に言われても受け入れられるようにならなければなりません。心当たりがあれば改め、なければ気をつければよいのです。指摘と批判を前に、心が動じないようにすることができれば、あなたはすなわち、向上しています」[1]
現実の中で、この「他人に指摘されたくない心」の現れも様々です。ある人は言われればすぐに怒ってしまい、ある人は「自分自身を探してみたらどうでしょう」と返事し、ある人は再三にわたって弁明し、ある人は絶対に認めず、ある人は笑いで誤魔化してしまいます。修煉の中で、この「指摘されるとすぐ怒ってしまう」[2]習性を取り除くだけではなく、内に向けて探したくない本質の部分も修めなければなりません。
時々、不注意に口にした一言をじっくり考え直して見れば、そこに多くの問題や、さらに変異し、さらに狡猾な観念が隠されていることが分かります。私たちは真剣かつ、無条件に内に向けて探さなければならず、根元まで自分の問題を掘り下げ、厳粛な態度でそれらを徹底的に取り除かなければなりません。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『ロサンゼルス市法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『各地での説法七』「二〇〇六年カナダ法会での説法」