神韻芸術団弟子の修煉体得
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文/神韻芸術団の大法弟子

 【明慧日本2015年9月24日】

 尊敬する師父、こんにちは。同修の皆さん、こんにちは。

 巡回公演が始まる前、私は明慧ネットの「真心を込める」ことについて書かれた文章を読み、とても感慨深く感じました。文章のテーマは神韻宣伝に関することでしたが、読んでみると自分の修煉の不足を多く言い当てていると感じました。衆生を救い済度することが全体的に緩む傾向にあり、毎日同じことをやって、多少怠けても神経が麻痺したようで、だんだんと自分は何のためにここに来たのかも忘れそうになってしまいました。多くの修煉者は以前のような「初心」の状態を保てない傾向にあるため、今回師父は再び、私たちに説法されたと私は思っています。

 その文章にはまず、怠けることと仕事そのものに執着する心について書かれていました。「たくさんの仕事をやっている同修はとても疲れて、何年も同じ内容なので、段取りをふんで事を進めば良いと思ってしまいます。『衆生を救い済度する』ための心が足りなくなって、神聖な衆生を済度することが、ただの『仕事』になってしまい、いい加減に終わらせる時もあります。しかし、彼らは神韻公演を満席にさせる貴重な経験と智慧を持っています」。

 私は神韻芸術団のダンサーとして、もし修煉を緩めたら、どうやって師が法を正すことを手伝うのでしょうか? もしも自分の責任さえ忘れたなら、まだこの神聖なことをする資格があるでしょうか? まして師父は自ら私たち芸術団を指導されています!

 文章はまたこのように書いています。「実績をあげると傲慢になって、周囲の同修を見下し、師父のご恩までも忘れる修煉者がいます。神韻は、師父が皆を率いて行われる偉大なプロジェクトであり、神韻芸術団のダンサーも神韻宣伝を行う大法弟子も、彼らの能力はすべて師父から頂いたものです。たくさんの成功も、師父が事前に他空間で下準備をしてくださったおかげです。しかし、一部の修煉者は些細な成績を自分の能力だと思って思い上がり、師父の慈悲と師父の助けを当然のことのように思っているようです」。

 私も以前、少し実績をあげると、第一念に浮かぶのは歓喜心でした。その後にすぐ「あなたは何を考えていますか? すべては師父が用意してくれたものですよ」と、考えを矯正します。

 師父は『二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法』で「皆さんは自分のわずかな成績にうぬぼれており、あなたは主役になったのでしょうか? 脇役にもなれず、ピエロになった人さえいます! これは大法弟子として行うべきことなのでしょうか? 師父からこのように要求されたのでしょうか?」と説かれました。

 私は何のために嬉しくなったのでしょうか。ダンスの技術が高くなってより良く大法を実証できるために嬉しくなったのか、それともやっと技術が高まって周囲に見せびらかすことができるから嬉しくなったのでしょうか? 内心にやはり顕示心が隠れています。

 ある日、こんな夢を見ました。小規模な法会が開かれて、私は階段の一番高いところに座っています。法会が終わる直前に師父がやってきて、私にいくつか舞踊の動作を直して、肩の動きを教えてくださいました。師父は階段の下で動作の手本を見せてくださって、私は上で動作を学んでいますが、なかなかうまくいきません。最後に師父は「下りてきてください。あなたに教えますから」と言ってくださいました。しかし、どうして師父が下にいらして、私は上にいるのでしょうか? 私は大法を第一位に置いておらず、かえって自分自身を第一位に置いたからではないでしょうか? 自分の能力を重視しすぎて、修煉こそ何より大切であることを忘れたからではありませんか?

 師父は『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』で「皆さんとして、大法弟子は最後になればなるほど、自分の道をしっかり歩み、時間を大切にして自分をしっかり修めるべきです。たくさんの仕事をしましたが、振り返ってみると、すべて人心で行なったのです。人間として人間のことを行い、正念を用いたのではなく、大法弟子の威徳がありません。言い換えれば、神から見れば、仕事を行いましたが、それはいい加減に終わらせたのであって、威徳もなければ修煉にもなりませんでした。これでは無駄になったのではありませんか?」と説かれました。

 夢の中で師父の最後の言葉、「下りてきてください。あなたに教えますから」は、はっきりと私にご啓示を下さいました。目が覚めた後、とても恥ずかしくなりました。

 師父は『転法輪』で「功能といい、功を開くことといい、みなあなたが大法の中で修煉して得たものにほかなりません。もし大法を二の次にして、自分の神通力を最重要視し、あるいは悟りを開いた人は自分の認識こそ正しいと思い、極端な場合は、うぬぼれて自分が大法を超えているとさえ思ったりしたら、その時点で、あなたはすでに堕ち始め、危うくなり、だんだん駄目になっていきます」と説かれました。

 あるダンサーと交流した時、夢の中で師父が直して下さった2つの動作は、ちょうどある舞踊の始めと終わりの動作だと、私ははじめて知りました。大法を実証するという神聖なることをやるならば、終始一貫しなければならず、いい加減にしてはいけないことを師父は私に教えられた、と私は悟りました。

 もう一つ印象深いことを皆さんと分かち合います。巡回公演の旅に出る前の最後のリハーサルで、階段を降りる時、私は同級生を避けるために足を捻挫しました。見たところ偶然ですが、しかし師父は『北米第一回法会での説法』で「皆さんに教えますが、出来事一つ一つも偶然なことではありませんでした」と説かれました。それは間違いなく邪悪からの妨害だと私は知っています。それほど足の捻挫を気にしていませんが、しかしきっと自分の修煉に漏れがあって妨害を招いたと私は分かっています。

 実は、長い間自分は発正念を重視していないことを、ずっと前から自覚していました。多くの場合、発正念をする時に集中できず、頭に雑念が充満します。原因はというと、根本から発正念を重視しておらず、師父のそばにいるので守られていると思うからです。世界巡回公演が始まると、しっかり発正念をしないと妨害されると分かっていて、一転して発正念をたいへん重視するようになりますが、帰って来るとすぐに気を緩めます。ひいては学法する時でも集中せず、頭に雑念を走らせることがあります。まさしく向上していないどころか、かえって下がっています。修煉の厳粛さをまだ完全に分かっていないからでしょう。

 師父は『ロサンゼルス市法会での説法』で「このように話しましょう。大法弟子は圓満成就に向かっていくために、三つのことをしっかり行うべきであり、そうではありませんか? 正念を発することはその中の一つで、これほど重要なことなのに、なぜしっかり行わないのでしょうか?! なぜ、たいしたことではないとして、重視しないのでしょうか? すでにこれほど重要だとわかっていて、しかも三つのことの中の一つなのに、しっかり行なわないで、どうしますか?」と説かれました。

 また、師父は『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』で「多くの人は正念を発するとき、いい加減にしています。体にあるこれらのものをきれいにしなければ、あなたの修煉が影響されます。しかし、これらのものは一念で消滅されてしまいます。あなたはどうしても正念が足りず、正念が生じず、作用がないのです」と説かれました。

 師父の言葉を思い出しながら、私は棒喝を受けたように目が覚めました。どうして最初からちゃんと発正念をしていないのでしょうか。どうしていつも妨害された後にやっと発正念の大切さが新たに分かるのでしょうか。とても後悔していました。しかし私は内心で固く妨害を否定しました。

 『洪吟』を暗唱しながら、私は強い正念をもってリハーサルを終えました。発正念を重視しないほか、大きい安逸心が見つかりました。

 3日後に公演が始まるので、足の捻挫が公演に影響してはいけないと思って、リハーサルが終わってから私は座禅して静功をしました。足を組んで座禅すること自体は、妨害を否定することだと私は思いました。私は「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」を心の中で暗唱して、一時間の静功をしました。翌朝、足は腫れました。業力が表に出てきたと私は分かっています。一日のトレーニング中、私は痛みに堪えて、すべての動作を完成しました。夜になると足の腫れが引いて、3日目に足は治って、全く捻挫した痕跡も残りませんでした。大法の力を実感しました。師父は肩代わりして、一部の苦しみを耐えてくださったと私は分かっていますので、「師父、ありがとうございます」と心から師父に話しました。

 巡回公演中にもさまざまな心性の試練に出会うことがあります。自分が修煉者であることさえはっきり覚えていれば、どんな試練でも乗り越えることができます。2週間前、私の腰は突然痛くなって、少し前へ曲げるとすぐに激痛が走って、授業で要求される動作さえ完成できませんでした。私は発正念をして妨害を否定しても、善解を試みても、大きな変化がなくて、とても困惑していました。何もできなくなって、授業をちゃんと受けられず、自由訓練の時でも一部の動作しか練習できませんでした。しかし、その中から多くの人心が見つかりました。例えば、同級生たちがある回転の動作を練習しているのを見て、私はとても羨ましくて、腰がいつ良くなるのか、良くなったら私も早くこれを練習したいと思ったりします。それは痛みを求める心ではありませんか? あの頃、時間が過ぎるのはとても遅いと感じて、私は少し消極的になって、ある状態に陥って抜け出せないと感じました。

 公演前のある日、『論語』を暗唱する時、突然脳裏にある声が響いて、「もともとそれほどひどくないことが、かえってあなた自身によって難しくされました」と話しました。私の心は大きく震撼し、もともとそれほど強くなかった痛みが、「心による変化」により、私の考え方によって拡大されたのでしょうか、そうであれば、自分の観念を変えなければならないところまで来たのではないかと、突然悟りました。その一瞬から、腰の痛みは本当にだいぶ和らぎました。同時に私は煉功を強化して、毎日少しずつ多く煉功するように努力しました。

 ある日、同修は私に「腰はまだ痛いですか」と聞きました。その時、どう答えれば良いかが分からず、腰の痛みはすでにだいぶ軽くなっていたのですが、最後に私はやはり「はい、そうです」と答えました。その答えは旧勢力の迫害を認めたことになったでしょう。その日の公演前のトレーニングで、腰にはまた激痛が走りました。一念を間違えて招いた妨害だと私は分かりました。あの2日間は、まるで生死の難関に出遭ったかのように辛かったのです。自分がどれほど師父と大法を信じているかが、これでチェックされたようでした。もしもその時に、私が百パーセント師父と大法をかたく信じていたなら、そのような面倒がもたらされたわけがありません。

 師父は『二十年説法』で「この世間は迷いの中にあり、修煉者も信じるか、信じないかの中で修煉しています」と説かれました。

 修煉には偶然の事がなく、腰の痛みの原因は何であれ、それを良い事として、心性を高める機会として対応していこうと私は決めました。こうして、腰痛は私の学業、生活と修煉に悪い影響をもたらさなかっただけでなく、かえって私の正念を強くしてくれました。

 師父の按排でしょうか。2回の公演の後に2日間の休みがありました。あの2日間、私は団体活動に参加するほか、ひたすら学法、煉功と発正念をして、自分の不足をたくさん見つけました。こうして、腰もだんだん良くなりました。

 肝心な瞬間に、修煉者としてどのような念を持つかは、本当に大切です。しかし最も苦難に満ちた時でも、師父がずっとそばにいらして弟子を見守っていることを忘れていない限り、きっと難関を突破できると私は信じます。今後、ただ自分をしっかり修めて、行うべきことをしっかりと行い、はじめて師父のご恩に少し応えられると思います。

 師父に感謝します! 皆さんに感謝します!

 (2015年ニューヨーク法会の発表原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/5/26/310043.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/5/27/150788.html)
 
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