真に、無条件に内に向けて探す
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 【明慧日本2015年6月5日】師父は説法の中で、繰り返し私達に、修煉者としてどんなことに遭遇しても内に向けて探すべきだと教えて来られました。私達はこの法理をよく知っていますが、しかし、問題に遭遇した際、そのようにできたでしょうか? 師父のおっしゃる通りに実行しましたか? 多くの同修はこれに同感していると思いますが、学法する際ははっきりと知っていても、本を閉じて、いざ実際の問題に遭遇すれば、法理に沿った実行ができていませんでした。長年修煉してきて、やっと気づいたのは、今までの私はずっと「自我」を軸に、形だけの修煉をしてきたということです。後天的に形成された「自我」を放下できず、たとえ内に向けて探しても、いつも条件付き(先に相手の不足を探す)で、真に法理に沿って無条件に内に向けて探していませんでした。今朝、煉功の際、自分の向上を妨げてきた問題の根源はここにあると気づきました。

 常人でさえ、相手の表れは自分の不足を照らし出す鏡であるという道理を知っています。しかし、人類の道徳水準の低下に伴い、人々はますます自身の教養を軽視し、変異した文化環境の中で成長してきた私達も、徐々に他人の不足を見る習慣を身につけ、自身を見なくなりました。故に、人々の間で発生するトラブルも激しくなってきました。なぜなら、誰もが自分に問題があるとは思わず、目を相手に向けるばかりだからです。修煉者である私達には、どんなことに遭遇しても、無条件に内に向けて探すという法理による明確な要求があります。しかし、トラブルを目の前にして、私達は往々にして、習慣的に相手の間違いを探し、問題の所在は相手にあると思ってしまいます。

 「彼らが相手のどうこうを見るときの目で、逆に自らを見ることができれば、と思います」[1] という師父の説法があります。この法はよく学びますが、道理が分かっても実行できませんでした。今回、この法の通りに実行できて、初めてそれによる私たちの修煉の向上に与える効果が分かりました。

 例を挙げてみます。他人から不足を指摘された同修Aさんの真っ先の反応は、自分の為に弁解し、穏やかな心を保てず、悔しさを感じていました。傍観者としての私も、Aさんにそのような不足が存在するとみています。その時から、私はAさんに対し、心の中で不満を持つようになりました。「なぜ内に向けて探さず、かえって弁明するのですか?」と思いながら、Aさんに対して悪い印象を持ち、Aさんさんは真に修煉していないと決めつけました。しかし、他人の問題に目を釘づけにしている間、私の脳裏にある声が響きました。「なぜ他人を見るのですか? なぜ同修にそのような印象を持つのですか? なぜ心が動じたのでしょうか? 自分を修めるのではないですか?」。そうして、私は内に向けて探し始め、自分と別の同修との間のトラブルを思い出しました。そのトラブルが長い間解決されない理由は、彼女が私に対して悪い印象を持ち、私の不足を多く指摘していると聞く度に私は悔しく感じ、他の同修の前で彼女の人心や不足を言いふらしました。私は悔しいと思えば思うほど、彼女の私に対する評価をよく耳にし、そして毎回、自分の問題を探すのではなく、相手の間違いに注目していました。こうして、トラブルが長引き、双方とも問題が相手にあると思っていたのです。今朝、Aさんの問題に対処する態度をみてから自分と比較し、初めて自分も同じだったことに気づきました。他人を恨み、外に目を向け、真に自分を修めていませんでした。師父の要求とは真反対です。

 師父は円満成就する天機を直接説法を通じて私達に教えてくださいました。同時に、私達は修煉において向上できない肝心な問題の所在も指摘されました。しかし、私達はそれを大切にしたでしょうか? 自身の長年の修煉を振り返り、向上が遅かったり、時には同じ次元に長く留まったりして、なかなか向上できません。その根本は、法の要求に沿って実行しておらず、完全に大法に同化することができませんでした。そして、もう一つ気づいたのは、他人から不公平な待遇を被ったとき、誰の問題であろうと、もし私たちの真っ先の反応は自己弁明であれば、それは後天的に形成された偽の自分が飛び出して来て、他人のせいにするよう私たちの思想を誘導し、それによって自分を覆い隠し、保護しようとしたからです。この偽の自我はどれだけ狡猾でしょう。多くの人はそれに騙されています。

 相手に誤解され、傷つけられた時、自分自身には本当に少しも問題がないのですか? 本当に修めるべき所はありませんか? なければ、なぜ心が動じるのですか? どうしても自分が正しく、自分に罪がなく、自分だけがつらい思いをしていることを証明したいのですか? これはどれだけ強い、自我を実証したい心でしょう。根本的に、名利情によって心が動じたのではありませんか? それこそ問題ではありませんか? 今までの自分は、この偽の自我に騙され、多くの向上の機会を逃し、逆に、自己弁明する度にその偽の自我にエネルギーを与え、それを増強してきました。

 師父は次のように説法されました。「他の空間にあるその身体は大きく変身したり、小さく変身したりすることができますので、佛像に乗り移れば、この佛像は一つの大脳を持つようになり、思惟を持つようになります。しかし、身体はありません。他の人も拝みに行きます。拝んでいるうちに、佛像に一定のエネルギーを与えてしまいます。特に煉功者の場合はいっそう危険で、拝むと次第にエネルギーを与えるので、やがてこの佛像が有形の身体を形成するようになります。ただし、この有形の身体は他の空間で形成されたのです」[2] この法理から私が悟ったのは、私達の成長過程で形成された偽の自我は、まさに拝まれた偽の佛像で、修煉者としての私達はそれを保護すればするほど、それを増大させ、外に目を向けてみる時、人心の執着は常人よりもひどくなります。なぜなら、修煉者としての私達はエネルギーを持っており、自分を修めず、毎回、外に向けて探すとき、その後天的に形成された偽の自我にエネルギーを送ることになります。どれだけ恐ろしいことでしょう。終いに、この強大な偽の自我にコントロールされ、自分が真に修煉していなかったことになります。

 毎回、私は自分の利益が取られないよう、人心を保護し、たとえ同修に指摘されても、延々と自己弁明を繰り返し、これほど偽の自我にコントロールされてきたとは思いませんでした。結果として、偽の佛像を拝む和尚と同じなのです。

 今日、この法理が分かり、一念の差(内に向けて探すことと外に目を向けること)によって、違う結果が生じることがよく分かりました。私達は師父がおっしゃった多くの法理を疎かにしていました。そして、私は無条件に内に向けて探すことの重要性を実感し、常人の理に陥って、誰かの非を議論すべきなのではなく、その時こそ、修煉者の角度から自分の人心を探し、修めるべき部分を探すべきで、それが私たちの修煉の落とし穴です。考えてみれば、人間の理に、絶対的な正誤はあるのでしょうか。

 しかし、私たちは往々にして表面の正誤を正そうとして、自分を修めることを忘れてしまい、人間の理と後天的に形成された観念を持ちながら修煉に臨みます。しかし、人間社会で形成された観念は自己保護のためにできてしまった偽の自我であるため、私たちは法に沿って実行しなければ、偽の自我に容易に動かされ、結果的に法に同化できなくなります。

 私たちが注目すべきなのは、物事の表面の正誤ではなく、自分がいつ、どのような念が動じ、どのような人心があり、法に符合しているか否か、これこそ私たちの修煉向上の鍵です。自分の正しさを強調すればするほど、自分に罪がなく、つらい思いをしていることを証明しようとすればするほど、偽の自我が強大になり、人心が膨張してしまいます。修煉者は人心を取り除こうとしているのではありませんか? 正誤などに執着し、どうやって修めるのでしょうか?

 偽の自我を増強させ、真の自分はいつ出て来るのでしょうか? 返本帰真できるのでしょうか?

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「時間との対話」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/6/1/310268.html)
 
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