文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年8月11日】私は1998年から法輪大法を修煉しましたが、数日前に起きた出来事を通じて、「自我」とはどういうものかがわかりました。
子供のころに学校に通ったことがありませんでしたが、母は幼いころから私に「仁、義、礼、智、信」[1]を教え、礼儀や謙虚、寛容な心、和を損なわない、どんなことでも他人を優先させ、自分が損をしても、他人を傷つけてはいけないと教えてくれました。
大法を学んでから、私はさらに大らかになり毎日楽しく過ごし、どんな心性の人とでも仲良くなれ、他の修煉者にとって、乗り越えなければならない関門は私にとって大したことではなく楽々と対処できました。しかし、この間、私より随分年が離れた若い同修に激怒されメンツが丸つぶれになった時、1人でこっそり泣いたことがありましたが、同修を傷つけないような念は全くありませんでした。それは自分は大法弟子だと分かっていて、その上、師父から内へ向けて探すという宝物を授けてくださったからです。長年修煉の中で、同修の間によく「自我」あるいは如何に「自我」に執着するとかをよく耳にしますが、私は大法と師父に託された三つのこと以外、他のことは全て放下できると思い、「自我」とはどういうものかはずっとわかりませんでした。
数日前、地元の学法グループの若い同修に携帯SIMカードを1枚購入してもらいました。私は彼女に100元を渡しましたが、ちょうど忙しく、SIMカードは受け取らなかった、とはっきりと記憶にありました。
その同修はいつも忙しく、いろいろなことを忘れがちな印象がありました。一方、自分はお金に関してはいつも気にしていてしっかりしていると思っています。毎日財布の中にいくらのお金が入っていて、いくら使ったなど正確に覚えています。私は財布とカバンの中を再度確認し、確かに100元が減っており、SIMカードも見当たらなかったので、彼女から絶対にSIMカードを受け取らなかったと思い込み、他の学習者の前で、彼女にカードを下さいと言いました。彼女は「そんなことはありえないでしょう。もし私が当時カードを渡して上げなかったら、お金を払ってくれるはずがないでしょう!」と答えました。
「私は記憶力が良いので、間違えるはずがありません。あなたはいつもよく覚えていないから、よく間違えるのです」と数回この話を繰り返しました。彼女が外に出て電話する時に、他の2人の同修も彼女がいつもそそっかしくよく間違えると言いましたので、私はさらに自分が正しいと思い込みました。1人の年配の同修だけが黙って発言しませんでした。その若い同修は電話が終わって部屋に戻ってきた途端、顔色が変わり、とても悔しい表情を見せ、泣きながら私がかつて間違えたことを例にだして私を責めました。
私は60歳まで生きている中で、誰かと言い争ったことは一度もなく、大声で話したことすらなく、人を傷つけるようなことはなおさら言わないのです。彼女はずっと泣きながら私のことを咎め続けていたので、私も今度は本気で怒りました。「もう言わないで、私が間違えたことにしましょう。カードもいらないからもうやめましょう」と彼女の話を終わらせようとしました。しかし、彼女を止めようと思えば思うほど、彼女はますます激しくなりました。私も執着心が刺激され理性を失い、2人はずっと言い争っていました。
私が悟らないのを見て、年配の同修は私に対して、「あたなが間違っています。自我が強過ぎて、自分を主張しすぎるのです」と教えてくれました。それを聞いた時、自分はその若い同修と仲がよく、親しくなってから情が重くなったと気付いただけで、他のことは特に考えていませんでした。
他の同修は皆内に向かって探し、発正念をしましょうと提案してくれましたが、その若い同修はまたその同修に怒り出しました。学法や発正念ができなくなりましたので、同修とそこを離れるしかありませんでした。
帰る途中、自我に対する執着を話題に同修と多く交流しましたが、まだ自分の執着に気づいていませんでした。年配の同修から「自我が強すぎる」と指摘されましたが、一体自分はどのように自我に執着していたのでしょうか? 私は間違っていなかった、私はただ自分が正しいということを強調していたのに、どうして自我が強いと言われたのでしょうか? その時、師父の法が頭に浮かんできて、直ちに自分が間違っていたと気付きました。起きた出来事の表面上で誰が正しいかについて考えるのではなく、言い争うことは心性の向上に繋がりません。しかし、その時には分かっていながら、人心とメンツの心が放下できず、悲しい気持ちになりました。
徐々に冷静になり、内へ探し、やっと自分が間違っていたと心から納得しました。私はその若い同修が間違っていて、自分が正しいことを証明しようとして、譲ろうとせず、表面上で誰が正しいか、誰が間違っていたかについて言い争って、冷静に現れてきた人心を掴み、内へ向かって探そうとしませんでした。私が言えば言うほど、その若い同修は受け入れず、私のメンツもさらになくなりました。今回のトラブルは師父が苦心して按排して下さった「自我」と闘争心を取り除き、心性を向上させるチャンスなのに、私は乗り越えるどころが、同修を傷つけ、学法グループの集団学法もできなくなりました。
いろいろ考えているうちに、無意識にポケットから、その若い同修から渡してもらえなかったとずっと思い込んでいたはずの、SIMカードが出てきました。その時、同修に合わせる顔がないと思い、とても恥ずかしかったのです。これはまたメンツの心だとわかりまりました。
この出来事を通じて、私は自我への執着の現れとその危害がわかりました。それは自分が正しいということを強調し、他人がいかに間違っているかを証明しようとする心だと思います。「自我」というものはまさに両刃の剣で、他人と自分を同時に傷つけるものです。
今回この出来事を書き出し、自我を強調する心、他人に指摘されたくない心をさらけ出し、必ずそれらの人心を取り除き、解体し、同修の間で互いにさらによく協調し、師が法を正すことを手伝う責任を果たしたいと思います。
適当ではないところがあれば、同修のご指摘をよろしくお願いいたします。
注1:五常(ごじょう)または五徳(ごとく)は、儒教で説く五つの徳目。仁・義・礼・智・信を指す。
儒教では、五常(仁、義、礼、智、信)の徳性を拡充することにより、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫の道をまっとうすることを説いている。