「独りよがり」と「意気消沈」は深く覆い隠れている自我の観念
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年8月3日】最近、私には「独りよがり」と「意気消沈」という二つの変異した物質があることに気づきました。これらの概念は私の修煉によく干渉していますが、今まで、はっきりとは認識した事がありませんでした。

 例えばトラブルに出会ったり、他人の言った事が気に障ったりした時、私は思わず論争したり、反論したりします。その時、私は修煉者の心理状態で理性的に全く対処できていません。その後、当然の事ながら、私は後悔します。長い間修煉し、法理に対する認識はしだいに深くなり、心理状態も穏やかになってきているのに、どうしてまたこんな事になるのか? 私は非常に戸惑いました。

 私は、明慧ネットで、ある同修の文章を読んで大いに啓発されました。詳細に考えてみると、自分の思想の奥底には「独りよがり」という変異した自我観念が潜んでいます。この観念は触れられる事を恐れており、何らかの衝撃を受けると、自分の人間の思いは、この観念に邪な方へ連れていかれてしまいます。結果、自分は修煉者という事を忘れてしまうようです。もっとひどい場合には強く恨む心と魔性が現れていました。この観念の狡猾なところは、私が自分に自信を持つことを口実に、隠れたり、現れたりします。しかもその存在に気づきにくいのです。ですので、自分は優越感をもち、様々な事を顕示する資格があると思い込んでいます。その思い込みは私の顔の表情だけではなく、話すときの態度にも現れていました。自分の認識はいかに良いかと思い込みます。「自分は人より優れている」という心はすっかり顕われていますが、私はまだ認識できていませんでした。ですので、私は他人の過ちを見たら、気に懸かって忘れられません。そして知らないうちに、人を手伝う事を口実にして、自分の執着を拡大しています。

 この観念には、もうひとつの現われがあると気づきました。この「独りよがり」というものは、他人に指摘されて言い訳できず、どうしようも無いと思う時、極端な方向に走るのかもしれません。そしてその時私は、意気消沈し、自分は何もできないと思い込みました。特に難関をうまく乗り越えられない時、私は自分自身の修煉状態に自信を持てなくなりました。この事には、人間の謙虚と同じ現われがあり、さらに気づく事ができませんでした。

 正念で邪悪を取り除く時、このような自我の観念に、私はよく干渉されている事に気づいています。法を正す過程で、「私は一体どのくらいの作用を果たしたのだろうか?」というような不純な思いがよく出てきます。私は損得ばかり気にかける心によって邪な方へ連れていかれてしまい、自己満足したり、落ち込んだりします。

 今、私は理解しました。この変異した観念がどんな顔を見せるかにかかわらず、私達は警戒するべきです。正念でこの観念を取り除くことを気にかけたり、または放任したり、この観念に連れていかれたりしてはいけません。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2001/9/14/16519.html)
 
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