観念の転換について再び論じる
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文/新疆の大法弟子

 【明慧日本2014年5月4日】最近、明慧には観念の転換に関する文章が多く掲載されていて、私も心から皆さんにこの問題を重視してほしいと思っています。観念の転換に言及すると、往々にして皆さんは病業に対する観念を転換する、あるいは常人のいわゆる健康増進から観念を転換することを思い起こします。しかし、それらはごく小さな観念の転換だと私は思います。

 家の外に出て青空を仰ぐと、自分の周辺の全てはぼやけて、まるで四角い箱の中にいるように、周辺の建物や花などは立体ではなく平面になっています。天空に居る佛道神は、まるで箱の中の人形を見るように私たちを見ています。私達は操り人形、あるいは平面の紙片のようでした。ある神は、私が彼を見ることができるのを見て驚き、笑いながら隣の神に話かけました。私は地上の方の全ては幻影と感じてなりませんでした。

 また、人間社会での具体的な表現も見えました。人間が他人とトラブルになった時は、相手が悪いのではなく、それは自分の業力によって引き起こされた現象です。その時、自分が忍耐せずに言い返せば、業を全く返していないことになります。いらいらして相手に言い返し、あるいは裏で相手の悪口を言えば、新たな業力を作ってしまうことになり、次回に業を返すとき、トラブルが一層激化します。しかし人間はこの事実を知らず、うわべの現象だけにこだわり、最終的にはトラブルが益々複雑になってしまいます。

 修煉の当初、修煉すれば人生が変わることを良く理解できず、その原理はどこにあるか知りませんでした。今思えば、人間の一生は決まっていて、それをどうしても変えようとする時、変える努力をすればするほど運命が悪くなります。例え本当に生活を良く変えたとしても(一般的な現れとして、金持ちになったなど)、楽にはなれません。悩みや病気も多くなってくるでしょう。

 常人がよく言う「今の福を満喫し、後で苦労を嘗めましょう」という話は全く理に適わず、私が思うには人間は一生涯苦労を嘗めています。いわゆる良い生活も他人に見せびらかす物に過ぎず、人間は到底無尽の努力と苦痛から逃れることはできません。修煉者は高次元の理を知ってから一切に対して淡々となり、忍耐し相手と無駄な論争をしなければ業を返していることになります。自分の不足を見つめ、自分自身を変えることに努め、他人を傷つけずにすれば、相手からも良くしてもらえるし、自然に新たな業力を作らなくなり、人生も自然に良い方向へと変わるでしょう。

 人間の性格には大きな不足があります。以前の私はトラブルに遭うといつも他人が間違っていると思い、冷静になると他の人の立場から考え、あるいは再び同じ問題に遭遇するとき、自分が相手に与えた傷害は非常に大きかったです。私には子供のようなわがままな性格があり(後に知り、以前はどういうことなのかも全く分かりませんでした)、相手が自分の話を聞いてくれない時、自分に譲ってくれないとき、自分を助けてくれないときに、一種の物質が外へと湧き出て、時にはその心が自分でもびっくりするくらい非常に悪く、しまいには過激な行動に出ます。実際相手を憎み「私は何もしていないのになぜこう反応されるのでしょう」と思ってしまいました。

 修煉を通じて、様々な経験をするうちに私はその物質に気づきました。私はいつも自分が正しく、いくら行き過ぎたことをしても自分には十分な理由があると思い、自分を正当化してしまいます。全て自分の利益が侵害されたと思い、相手を傷つけてしまいます。(利益というと通常はお金や物だと思いがちですが、それに限らず自分の様々な心が妨害されたり、自分自身が侵害されても利益に関わります)。 「自分は何ごともよくやっているのに、なぜ人から良くされないのでしょう」と不満に思い、自分が相手に与えた傷害は全く認識せず、自分だけが苦労していると不満不平に思います。実際全ては自分の間違いであり、包容できず心が狭いのです。

 他人の立場で考えられるようになってから、私は自分の良くなかったことに気づきました。しかし人間はこのようなことに気づくことができず、自分だけが正しく全ては他人の間違いだと思い、他人に与えた傷害を無視し他人が悪いと思い、しまいに自分が相手に良くしてあげ過ぎたので馬鹿にされていると思い、自分が良くされない理由を見つけます。

 また、人間は観念を持って周囲の親族に定義をつけます。例えば、お父さんはこうであるべき、お母さんはこうあるべき、そして子供はこうであるべきだと勝手に思い、相手が自分の望み通りにならなければ怒ってしまいます。これは私心です。自分の幻想を相手に押し付けて相手を苦しめ、自分も苦しくなります。なぜなら、誰もが自分に良くしてくれないと思っているからです。しかし、自分を幻想の人物の中に入れると、自分の行いはどうでしょう。

 これらの不足は人間の生活を苦しくさせ、人間関係を緊張させ、相手から更に悪い待遇を受け、しまいに絶望や苦痛の中で一生を終えます。しかし修煉者はそれを転換することが出来ます。自分が相手に良くしてあげられなかった部分を反省し、それを改め心性を向上させ楽しくなります。罵られれば業を返せます。師父も業を取り除いて下さいます。そうでなければ何回死んでも業を返しきれません。運命や未来を心配せずに、満足することを知ります。このような人は自然に楽しくなります。大法を得ることはどれだけ幸せなことでしょう。法を得なければ、私は悲惨な一生を終えたでしょう。その恐ろしい性格にコントロールされて一生暮らし、不満不平の中で生命を終えるだけでなく、多くの人も傷つけてしまいます。

 この数日自分には、ある「私」という黒い影のようなものがくっ付いているのが見えました。誰かに傷つけられた時、この「私」が自然に汚い物質を出します。実際「私」が傷つけられたからです。これらの黒い物質に私は耐えますが、もしこの「私」を取り除けば全てが空になり、心も空になって落ち着くでしょう。

 多くの同修はこの問題においてあまり注意しておらず、大法のことを沢山実行すればそれが修煉だと思っているようです。大法の実証も大事ですが、しかしこれらの小さいことは時には小さくありません。他人の間違いが見えたとき、それを持って自分に照らし合わせ、少なくとも自分を変えようとする意志があれば、目に見える現実にこだわらないようにし、純粋な子供を良く思い起こし、彼らと比較すれば自分のギャップが見えてくるはずです。これ以上自分の執着を正当化するための理由を探さないで下さい。どうかこの点を注意してほしいです。

 妥当でない部分があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/4/22/290306.html)
 
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