長年の人の観念をいつ放棄するのですか?
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年3月16日】一部の大法弟子は、修煉期間は長いのですが、何か問題があった時、生じた一念はすべて人の論理、習慣、人の概念、経験、観念などです。しかも、これらのものに従って動いていることを現在に至ってもまだ気づいていません。他の人から注意されても、そうだと思わない人が多いのです。人に言われたくない人もいれば、表向きは受け入れたように見えますが、実は全く受け入れていない人もいます。このような問題も重視しなければなりません。どのように修煉すればいいのか分からない人もいれば、真面目に修煉していない人もいます。

 ある同修の話を聞いて、すぐに執着心だと分かりました。例えば、「私は胃がいつも痛いです」、「私の家族は代々同じような病気にかかっていたので、私もほぼその病気だと思います」など。あるいは、「私は幼い時、足を負傷したことがあります。だから、長時間立つことができないので、第二式の功法を煉る時も、したくありません」と言います。また、「私はある程度の年齢になっています。あなた達がこの年になったら、私よりも状態が悪いかもしれませんよ」という人や、「私はあれを食べるとすぐ気分が悪くなります」という人もいます。

 あなたは自分が年を取ったと思った時、それはまさに人の観念です。その時、あなたの心性は常人と同じレベルになっています。もちろん、旧勢力はあなたを見逃しません。常人の状態が現われてきます。ある人は自分を煉功者だと認識していません。仕事で疲れて帰ってくると、ソファに折り重なるように座り、「ああ、ああ」とわめいています。人の観念で自分を評価すると、それは当然、人が感じたものになります。人は「寒くても駄目、暑くても駄目、疲れても」[1]駄目です。

 私達は修煉者です。次第に人の状態から抜け出していくべきです。いつも、体がだるさを感じたり、気持ち良くないと感じたりすることは、すべて人の観念ではないでしょうか? 修煉者は常人と混同しないように、人のさまざまな観念を放棄しなければなりません。そのため、多く学法をします。何かあれば、自分は修煉者だと自覚して、煉功者の基準で自分を律します。自分の感覚やさまざまな欲望を満たすのは常人です。お腹が空いたら食べ、喉が渇いたら飲み、眠くなったら眠る。これらのことより重要なことはないと思い、それは常人の状態、人の観念ではないでしょうか? このような観念が煉功者に影響しています。生活の中で出会ったことは、すべて私達と関係があります。私たちが自分を煉功者とみなし、法を常に念頭におくことができ、そうして、人の観念を変えることができて、法の要求に基づいて、やっとやり遂げることができます。

 適切でないところがあれば、ご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/3/10/288553.html)
 
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