誰が間違っているかは重要ではなく、執着心を取り除くのが肝心
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年4月22日】最近、時間が経つのが非常に早いと感じ、まだ何もしていないうちに一日が過ぎ去ってしまいます。師父が私達の修煉のために伸ばして下さった時間も益々少なくなりました。しかし自分自身を見てみると、十数年修煉してきて、未だに同じ次元に留まっていて、法の要求基準に達しておらず、焦りを感じます。もし今すぐ法を正すことが終われば、私には泣く余裕もないでしょう。

 なぜ心性の向上がこれほど遅いのでしょうか? 法も学んでいるし、魔難の中で関を乗り越える際、内に向けて探してもいますが、やはり、その後も同じ場所に留まっています。こうして一回一回師父が按排して下さった心性の向上のチャンスを逃してしまい、ある意味、その関をきちんと乗り越えなかったが故に、ずっと同じ関の中にいました。

 恥ずかしいお話ですが、私はある同修とよく衝突します。時には一言、二言のせいで、あるいは私が間違ったり、誤解が生じたとき、その同修に指摘された場合、私は滅多に弁解や釈明をしません。もしその同修がずっと話し続ける状況にある場合、私は多くの同修の前で面子が潰され、あるいは心の平穏を保てないとき、『洪吟三』「辯少なしに」と「誰が是誰が非」を暗唱し、少し効果がありました。

 最近、ある小さなことで、私はまたこの同修を怒らせてしまいました。彼女は私の執着心を指摘しました。私は「またトラブルですか。今回は絶対しっかりと乗り越えなければならない」と思いました。そこで、私は以前と同じく『洪吟三』の「誰が是誰が非」を暗唱しました。最初は少し落ち着いてきましたが、まだ迷いがありました。「今回は多分、乗り越えられるでしょう。もうこの関は来ないでしょう」と。しかし、トラブルに遭遇するのを恐れる心や、和気あいあいを求める心があるが故に、根本的な執着心まで辿り着けず、肝心な心性の向上が得られませんでした。帰宅後も、私はずっとこう思いました。「責任は全て私にあるわけではないが、彼女は私を強引に責めています。私を追い詰めています」。これらの常人の心が全部現れてきました。

 私は修煉者の立場に立って物事を考えられないとき、よく魔に隙に乗じられ、妨害されます。「あなたは間違っていません、彼女の間違いです!」という声が聞こえてきます。その声に沿って考えれば考えるほど、私は心が落ち着かず、学法煉功に集中できず、発正念をしても全く効果が得られません。時には「修煉は本当に難しい」と思ってしまいます。

 私は自分を良く修めていないが故に同修に心配をかけてしまいます。それは師父が彼らの口を借りて私を教化されているにしても、トラブルの中にいる同修もしんどいでしょう。本当に皆さんに申し訳なく思います。私って本当に嫌な人ですね。全体に悪影響を与えないよう、私は如何にしてトラブルから避けるかを考え「今後は自分と関係のないことに口を挟まないようにしよう」と消極的に考え始めました。

 私は自分が師父のおっしゃった「業力が大きければ悟性が優れない」[1]タイプの人だと断定し、向上するのが非常に難しく、今後は余計な世話を焼かず、トラブルから避け、自分の能力範囲内で修煉していけばいいと思いました。

 しかし、ある日、学法をしようと『轉法輪』を開いた途端、この一節が目に入ってきました。「われわれはここで、皆さんに正しい道を歩むよう教え、同時に法も分かりやすく説き聞かせ、悟るように導いていますが、実行するかどうかはあなた自身の問題です。「師は入口まで導くが、修行は各自にあり」と言われているように、誰も修煉を強要しませんし、無理にやらせることはありません。修煉するかどうかはあなた個人の問題で、つまり、あなたがどの道を歩むか、何を求めるか、何を欲しがるかについては、誰も干渉する人はおらず、ただ善をなすように勧めることしかできません。」私は突然悟りました。師父は私に、「弟子よ、落ちて行かないで下さい。危険です!」と気づかせてくださいました。私は感激を覚え、この意気地ない弟子を嫌がらず、見捨てていない師父に感謝いたします。その後、私は考えを180度変えました。これ以上精進しなければ師父の慈悲なる救い済度に面目が立たないと思いました。

 再度、『洪吟三』の「誰が是誰が非」を暗唱するとき、私の理解が違ってきました。私は「正しきは彼、過ちは私」のもっと深い次元の法理が分かりました。その次元に達するには、迷いなく自我を放下し、偽の私を捨て、無私無我の境地に入らなければなりません。何故なら、私達は常人社会に来てから、迷いの中で、常人社会の染め物がめで汚染され、体は黒い業力や後天的に形成された観念、思想業力などの物質に包まれ、既に真の自我を見つけるのは難しいのです。多く学法し、偽の自我をはっきりと分別し、初めて間違った自我を捨てることが出来ます。自分はどこで間違ったのかを認識し、その後、それを取り除けるよう努力し、初めて返本帰真できて、本来の本性に戻れます。

 再び同修を見て見ると、彼らの良く修めている一面が輝いているのが見え、私は羨ましかったです。自分はただ技術面で少し長けているというだけで歓喜心が生じ、怨む心や、恐れる心、口を修めず、安逸心もあって、様々な執着心が見えてきました。これだけ多くの執着心を持って大法のことを実行しても威徳が得られると思いますか? どうしましょう! 決心して修煉に全力を尽くすしかありません。師父が仰ったように、「修は己にありて、功は師にあり」、正法が終わっていなければ、機会はまだあるので、時間を無駄にせずやるべきことを実行していくしかありません。私達が努力すれば、師父は私達の良くない物質を取り除いて下さいます。全ての執着心を取り除いたとき、私達は師父について本当の家に帰ることができます。

 以上は、私の浅い次元での認識ですが、不適切な部分があれば同修の慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/4/11/289832.html)
 
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