一部の大法弟子はなぜ内に向けて探せないのか (二)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年11月20日】(前文に続く)

 三、「内に向けて探す」を行動につなげる

 修煉の中でトラブルに遭えば、私は自分に「内に向けて探す」と言います。しかし、内に向けてじっくり探してみると、私の目は常に外を見ようとして、具体的なことを見ようとして、常人社会のさまざまな現象を見ようとして、トラブルの相手を見ようとしていて、私の意志に反することをしています。 いくら力を尽くして視線を内に向けさせようとしても、 思想の中のある力も同時にそれを外に向けさせようとしていました。(この感覚は非常に注意深く観察しないと気づきにくいのですが)同じことを数回経験した後、私は自問しました。思想の中から出ていて、私の目を外に向けさせるこの力は、どこから来ているのか? どんな物質なのか? 私の正念に反することをしているので、きっと私ではない。さらに見ていくと、この「外に向けて見る」のが三界内に存在する一種の強い観念で、確実な物質だと分かりました。私が今までスムーズに内に向けて見ることができなかったのは、この観念による反作用を受けたからです。

 この観念はいつ形成されたのでしょうか? 数十年前、数百年前、数万年前かもしれません。それに気づいてから、私は強い正念でそれを正そうと決めました。始めは大変でした。心の中で「内に向けて見る、内に向けて見る」と思っていても、「外に向けて見る」という観念にコントロールされて目がずっと外を見ていました。どうしましょうか? 内に向けて見ることができなければ、深く隠されている執着心を探し出すことは机上の空論になってしまいます。必ずそれを正さなければなりません! そう思った私は正念を強め、およそ一週間の時間をかけて、やっと「外に向けて見る」という観念を正しました。再び「内に向けて見る」という念を発すると、目線は自然に内を向けて心を見たり、言動を見たりして、私の意志通りに動くようになりました!

 「内に向けて探す」を口癖のように言いながら、実際の修煉の中で常に外を見ている同修は、なぜ内に向けて探すことを行動に移せないのでしょうか? そこには原因があります。

 「内に向けて探すこと」は言葉を発するほど簡単ではなく、行動につなげることはもっと容易ではありません。

 四、真に内に向けて探し、自分の心を修煉する

 「外に向けて見る」観念を正した後、私は真に内に向けて執着心を探し始めました。執着心には、恨む心や闘争心、恐れる心など、簡単に見つける執着心もあれば、時間や労力を費やしても容易に見つけることができない執着心もあります。また、他の執着心に偽装したり、他の執着心を操って大法弟子に妨害を与えながら裏に隠れている執着心もあります。

 ときどき、表面に出て来た執着心に沿って探していくと、別の執着心を見つけることができます。さらに奥へ探していくと、また別の執着心を見つけます。たとえば、トラブルの中で2人は喧嘩していて、それが闘争心によるものだと分かりました。続けて探すと、そこには嫉妬心がありました。さらに探していくと、利益をめぐる執着心が作用していました。さらに利益心の背後には何があるでしょうか? 内に向けて、さらに内に向けて深く探していく過程で、私は自分のさらなる微粒子の空間に入っていくように感じました。

 執着心も命のある物質ですので、あなたが内に向けてそれを探そうとしていると気付いた途端、あなたをイライラさせたり、排斥したい感覚を与えたり、内に向けて探すことをやめる念頭を浮かばせたりします。甚だしきに至っては、「内に向けて探す」を聞きたくないくらいあなたの思想を攪乱させ、あなたの主意識を他の件に分散させ、とにかくそれを探すことを止めさせます。このようなときこそ、内に向けて探す意志を強め、強い正念を持たなければなりません。

 弱い執着心は一念で滅することができますが、強い執着心は1日の時間をかけても排除することができません。どんなに難しくても、放棄してはいけません。一部の同修は中途半端に執着心を取り除き、その後も重視せず、結局、執着心を自分の微粒子空間に逃げさせてしまい、その空間にいる衆生も迫害を受けることになります。その後、その執着心はふたたび出てきて大法弟子を迫害します。大法弟子はその執着心の影響で大法弟子に適しない行為をしたり、または大法の要求に符合しない思想を持てば、旧勢力に迫害の口実を与えることになります。

 普段、常に法理を持って自分の考えや念頭の一つ一つを、また、言動の一つ一つを入念にチェックしなければなりません。法に符合しない部分があれば、「この行為はどんな思想または執着心によるものなのか? この一念はどこから来ているのか? 根源は何なのか?」とじっくり探してみて下さい。絶えず探せば、きっと見つけることができます。ただ、堅実な修煉の基礎が必要です。それらの念頭は動きが非常に早いので、それがあなた自身の考え、あるいはあなた自身が考え出した念頭と思わせてしまいます。

 師尊はこうおっしゃっています。「人間の行為は考えによって支配されている」[1]

 ある日の退社後、私は最後の1人としてオフィスを出ようとしました。突然、「某同僚のデスクを見て見よう」という一念が頭をよぎりました。私(主意識)がそれに気づいたとき、片方の脚はすでに持ち上げられて、その同僚のデスクに向かおうとしていました。私は脚を止めて、内に向けてその一念の出処を探しました。私(主意識)は先ほどまで同僚のデスクを見ようと考えませんでした。それでは、この一念はどこから来たでしょう? 外部から来たのでしょうか。その一念があまりにも早く、さっと私の頭をよぎっただけで、すでに私の主意識を騙し、私の体まで動かしました。ならば、以前私の頭をよぎる多くの考えや念頭は、どれくらいが私の主意識によるものなのでしょうか? こう思うと、冷や汗が出てきました。もし、思想の源を分別できなければ、いかなる外部思想も私をコントロールし、妨害することができるでしょう! そこには各種の観念、執着、外来の生命、そして旧勢力も含まれているでしょう! 

 師尊はこうおっしゃっています。「常人の脳を制御することはいとも簡単なことです」[2]

 そうであれば、修煉者は法を持って自分の「一つの考えや一つの念」を判断できず、正念が足りないときに取った行動の幾分(どれだけ)が真の自分の主意識によるものでしょうか? それらの行動は法の要求に沿っていたのでしょうか? あるいは旧勢力の望みに叶っていたのでしょうか?!

 「そう考えると、実に恐ろしいことです!」

 どれくらいの大法弟子が真に、随時に自分の思想、自分の行動を主宰しているのでしょうか!

 時々、トラブルの中で、執着心に強くコントロールされていることに気付かず、自分と執着心をはっきりと見分けることができなくなった時、私は第三者になったつもりで、そのトラブル、欲望、観念から抜け出してみます。そうすると、主意識がすぐに目覚め、冷静に物事を判断するようになれます。この方法は結構実用的です。一旦、真の自分(主意識)と後天的に形成された観念や執着心を見分けられるようになれば、正念でそれらを排除すればよいのです。

 五、法理を持って判断する

 師尊はこうおっしゃっています。「実は、国内にいるにしても、国外にいるにしても、どこにいても、大法弟子の修煉はそれぞれ異なっています。私は見本がなく、参照がなく、参考にするしかないと言っています。ほかの人が正念で行なったことを参考にするしかありません。相手のやり方で行い、相手が行なったことをそのまま踏襲するのであれば、あなたは間違いました。すべての人が自分の道を歩んでおり、すべての人が将来自分が大法の中で認識する法を正しく悟っています」[3]

 修煉の中で、私は一種の習慣的な考えを持っていることに気づきました。どんな考えかと言うと、良く実行出来ている同修を見れば、その同修のやり方を真似しようと、彼の認識や行動を自分の行動の指針としようとしてきました。他の同修にもこれと似たような現象を見て来ました。たとえば、同修達はこのように話していました。

 1、この件はこうすればいいと思います。先日の修煉体験の文章を見ると、良く実行出来ている同修もそうしていました。

 2、某同修の修煉は本当に良くできています。私たちは彼(彼女)のやり方を学ぶべきです。

 3、天目が開いている同修は確実に見ます。それが偽ではなく、本当です。私たちは言われる通りにやれば間違いありません。

 ……などなどです。

 実際、正念の中で私は他の人を真似してはならず、法を持って一切を判断すべきだと思っています。なぜ心からいつもこのような念頭が出てくるのでしょうか? この念頭が常に私に影響を与え、他の人を真似するように私を操ろうとしています。ある日、私は自問しました。「この念頭は法の要求に反し、どこから来ているのだろうか? 探し出して見よう!」 私は角度を変えて考えてみました。常人はよく他人を真似します。他の人の服装を真似したり、勉強の良く出来ている学生の勉強方法を真似したり、実績の良い社員のやり方を真似したり、良い制度を持つ会社の制度までが全社会に広められています。このような他の人を丸ごと模倣し、学ぼうとすることは、常人にとってはすでに自然なものとなり、一種の観念として形成されました。

 修煉者はこの種の観念に気づかず、取り除かなければ、修煉の中に持ち込んでしまいます。そうすると、状況や場所、個々の修煉者の修煉状態の違いなどを弁(わきま)えず、常人のようにお互いをまねる現象が起きてしまいます。しかし、忘れてはならないのは、私たちは修煉者であって、常人ではありません。

 常人はみな同じ次元にいるので、お互いを学びあったりしても構いません。しかし、大法弟子はそれぞれ違う次元、異なる修煉状態にあるので、あなたが学ぼうとする大法弟子の真の次元、真の修煉状態が分からなければ、彼の何を学びますか? あなたが学んでいるのは彼の常人社会での一つの「振る舞い」に過ぎません。しかし、彼のその振る舞いは、果たして人心によるものなのか、正念によるものなのか、また、彼が悟ったどの次元の法理による振る舞いなのか、あなたには分からないでしょう。 

 大法弟子は法理を持って自分の言動を指導し、自分が見聞きし、感受している一切を判断しなければなりません!

 (続く)

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法の中に溶け込む」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇一二年米国首都国際法会での説法』

 
(中国語:http://big5.minghui.org/mh/articles/2016/10/9/336082.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2016/10/23/159650.html)
 
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