同修を救援する問題について、武穴市の同修と交流する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年2月18日】仕事の関係で、私は常に湖北省武穴市の同修と交流することができ、直接、あるいは間接的に武穴市の状況を理解しています。李華峰さんを救援する全過程において、私は傍観者とも言えるので、第三者の角度から、この事件で、武穴市の同修が全体的に協力する過程で、どんな問題があったか、より理性的に見ることができればと思います。同修を褒めたたえる言葉は、ここでは省略させていただきます。本文では主に現れた問題について同修と交流し、現地の邪悪な環境を変え、即時に迫害をやめさせ、世の人々を救いたいと思います。不適切なところについては、お許しを願います。

 現在、法を正す進展はすでに終わりに近づき、邪悪は消滅されて、ますます少なくなっています。中国大陸の各地では、警官が自分自身を守るため、相次いで自ら迫害をやめる現象が現れ、形勢はますます良くなりつつあります。

 武穴市梅川鎮の同修は、李華峰さんを救援するために署名を集め、大量に邪悪を暴き、大きな社会的影響をもたらしました。理屈から言えば、大いに現地の邪悪を震いあがらせたはずでした。しかし、なぜこの事件が発生してから、邪悪はかえって更に狂気を増し、迫害が更に酷くなったのでしょうか? これは私たちが改めて考え、皆がしっかり内に向けて探すべきことではないでしょうか。

 私は修煉する中で、ある地区での法を正す形勢は、該当地区の同修の全体的な協力状態に対応しており、言い換えればこの地区の法を正す形勢は、該当地区の同修の全体的な協力状態の外在的な表れであると理解しています。私が知っている限り、武穴市の同修は協力することにおいて、とても大きな問題が存在し、真に全体を形成することができませんでした。具体的な現れを下記に記します。

 法に学ばず人に学び、協調人をじっと見つめる

 この問題は比較的突出しています。一部の同修は周りの協調人をじっと見つめるだけでなく、同時に自分の考えを持っている周りの同修をもじっと見つめています。他人がよくできたら、それに引っ張られて、自分もよく行います。他人がよくできなければ、ひいては間違いを起こしたら、自分も同じく間違いを犯し、ひいては間違いとはっきり分かりながら、間違いを犯します。まるで人のために修めているようで、まったく法をもって量ろうとしません。私が思うには、このようにしてしまうと自分に害をもたらすだけでなく、自分の法を正す道を歩むことができず、同時に協調人をも害し、同修のなかで派閥を作り、間隔を作ってしまいます。

 ある区域で、同修がみな人を見て、人に学び、法に学ばない時、学ぶ対象となる人を中心に派閥が形成されます。こうして、異なる派閥が形成されます。私たち全ての大法弟子は一つの全体であるのに、このように異なる派閥が形成され、それぞれが自分のグループを作ったら、それは全体を分裂させることではないでしょうか? 人為的に間隔を作ったことになるのではないでしょうか? この隙間は、邪悪に隠れる場所を提供するのではないでしょうか? 邪悪を保護しているのではないでしょうか? その邪悪はあなたの所にもぐりこまなければ、どこへ逃げられるのでしょうか? 自分で迫害を酷くさせているのではないでしょうか?

 このような状況下で、各派閥の協調人の間で意見が一致するときはまだましであり、全体で仕事をすることができますが、意見が異なる場合、ひいてはトラブルが起きた場合、問題は厳しくなります。ひいては、ある地区では技術のある同修がおらず一部のプロジェクトが進まないが、もう一つの地区では技術のある同修を独り占めし、他の地区に対して、技術の封鎖をするという酷い状況が現れてしまいました。

 同修よ! これはまさに邪悪を手助けして、あれらがやりたくてもできなかったことをやってしまったのではありませんか? このような振る舞いで、大法弟子と言えるのでしょうか?

 私からみると、この問題が現れた根本的な原因は、法に対して理性的に認識できず、法に基づいて法を認識することができず、人間の執着を放下しようとしないからです。人間の執着を抱いて学法するから、更に高い次元の法理を悟ることができないのです。

 仕事をする際に勢いを追及し、自我を実証する

 実際、勢いを追及するその背後には、自我を実証する心が隠されています。この問題は主に、前述した自分の考えを持っている一部の同修と協調人に現れています。常人の言葉で言うと、個人のヒロイズムを追及しています。同じ地区の同修の盲従と崇拝の下、少しずつこの心が膨張し、ひいては三つのことをやる時にも、名を求める心と顕示心がとても深いところに隠されています。自分が単独で仕事を担当できると感じ、自分が素晴らしいと思い、少しずつ自分を全体の外側に、ひいては大法の上に位置づけ、自分を全体の中の一つの粒子とみなしていません。黙々と全体に円容すること、同修に協力することは更にできません。これも同修の間で全体を形成することができない一つの重要な原因です。

 このような状態で、異なる区域の同修の間にひどい対立が現れ、互いに往来せず、ひいては協調人が会った時、互いに挨拶もしません。これらの心が痛む例を挙げるのは、同修を批判したいからではなく、ただ私自身が焦っているからです。同修達がこれらの問題を重視し、内に向けて探し、そして更によくできることを希望します。

 同修に対して冷たく、各自が自分を守る

 同修に問題、ひいては危険が現れた時、同修のことを自分のこととみなし、自ら助けようとせず、同修に対して冷たく、ひいてはまったく関心を寄せません。自分と関係ないと感じ、こうして同修の間はまとまりのない群集のようになってしまいました。

 私が思うには、このような状況が現れた主な原因は恐れる心、自分が巻き添えになることを恐れる心、自分が影響されることを恐れる等などの人心です。これは私心であり、慈悲心ではありません。

 李華峰さんを救援する事件のなか、迫害はエスカレートし、邪悪は狂気を増し、すべての地区がとても大きな影響を受けました。とても多くの同修が直接、あるいは間接的に迫害を受けましが、このような状況でも、迫害の情報はかえって厳しく封鎖されています。非常に多くの伝えるべきことが、ネット上に掲載され暴かれることなく、各自が自分を「保護」していて、迫害を更に酷くさせました。

 以上は、私が個人的に認識できた、三つの比較的重要な問題です。一部の同修は、ひいては李華峰さんを救援する中でマイナスの教訓を得てしまい、同修を救援するために邪悪を暴きだしたから、邪悪を激怒させ迫害がエスカレートしたと思っています。この認識は完全に反対であり、基点が正しくないと私は思います。

 私はこう悟っています。すべての大法弟子にはみな自分の歩むべき、それぞれの修煉の道があり、各自が修煉の過程を体験し、この過程で絶えず昇華し、最終的に円満成就に至ります。すべての大法弟子はまた、一つの全体をなし、すべての大法弟子は全体のなかの一つの粒子であり、大法の一部分です。この大法の全体に溶け込んでこそ、はじめて大法のエネルギーを有することができます。各地区の大法弟子も一つの全体であり、私たちのこの全体はまた、師父を助けて法を正し互いに協力します。色々なトラブルの中、内に向けて探し、その過程で絶えず補い合い、絶えず円容し、最終的に一体をなす過程です。この過程のなか、私たちは絶えず円容し、絶えず間隔を消去し、最後には完全に一体をなし、脈もなくツボもない境地に至ります。その時、邪悪は身を隠す場所がなくなり、私が思うには、法が人間世界を正す時期に至ります。

 私はまた悟っています。以上に述べた二つの過程は、実は一つであり、同時に進行します。全体がよく協力することができなければ、全体的に協力し合うことの重要性を認識できず、自分の個人修煉だけを強調すれば、ほかでもなく自分を孤立させ、少しずつ大法から離れて行くことになります。これは極めて危険なことです! 私が気付いたところ、本来よく修めていた一部の同修が、後になって間違った道を歩み、邪な悟りをし、ひいては完全に大法の反対側に走っていったのは、彼らが自分を全体のなかの一つの粒子とみなすことができず、黙々と全体に溶け込むことができず、最終的に自分を孤立させ、大法から離れて、最終的に大きな問題が現れたのです。

 私たち多くの同修に見えましたが、真相伝えがよくでき、多くの衆生を救い、修煉環境が良く、邪悪があえて迫害できない地区は、いずれも全体的によく協力でき、同修の間は黙々と協力することができ、間隔がほとんどない所です。

 この数年間、師父は各地の説法の中で、何回も大法弟子の間で全体的に協力すること、全体を成すことの重要性を強調されました。師父は口酸っぱく、何回も繰り返して、私たちに強調し、ヒントを与えてくださったのに、私たちはどうして師父の話を聞き流すのですか? これは師を信じ大法を信じることなのですか? 師父の話を聞かなかったら、まだ大法弟子なのですか?

 今回、李華峰さんを救援することの中で現れた酷い問題を通じて、同修達が全体に協力することの重要性を認識でき、まじめに内に向けて探し、人心と執着を捨てることができ、こうして隙間をなくし、なるべく早く全体を成し、環境を正し迫害を制止し、世の人々を救い、師父に少しでも心配をかけることを少なくすることを希望します。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/2/10/287516.html)
 
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