神韻を広める過程での生命の昇華(二)
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文/ベルギーの大法弟子

 【明慧日本2014年2月23日】

 二、位置を正しく置き、緊張する心を取り除き、ロータリークラブで神韻を広めた

 私達は神韻を広めた経験のある台湾ロータリークラブのあるメンバーを誘い、私達の所にあるロータリークラブで神韻を広める為に来て貰いました。現地のロータリークラブの同修に連絡し、前期の準備仕事をして貰いました。私は同修に付き添ってロータリークラブを訪問することを喜んで承諾しました。同修の所で滞在した3日間で、皆はおよそ4、5のロータリークラブの訪問の予約を取りました。

 初めて同修に付き添って訪問するとき、経験がないため、ただ彼らに資料を送るだけだと思っていました。意外にも、その会長は私達がここに残って食事をとり、食後私達に10分間、神韻紹介の時間を与えると言いました。私はプレゼンをやったことがなく、また彼らのほとんどはフランス語しか話せません。会社の大社長らに直面し、私は少し緊張しました。食事をとる時、師父は私達大法弟子が神の道を歩んでいる人だとおっしゃたことを思い出しました。また師父は説法の中で大法弟子一人一人の能力がみな非常に大きいと何度もおっしゃいました。自分が誰であるかが分かり、あのとき私の内心は非常に落ち着いているのを感じました。私はとても平然と立ち上がって、神韻を紹介し、ある人は私の話しが終わるまで待てず、手を挙げ、どこでチケットを購入出来るか聞きました。

 師父がおっしゃったことで、私が切に感じたのは「本当に多く気遣う必要はなく、正々堂々と行なえばいいのです。大法弟子なので、自分が人を救っていると分からないのでしょうか?」[2]

 最もおもしろいのは、翌日のロータリークラブ訪問のことです。彼らは前に何度も時間を調整し、最後に台湾の同修がいる日に定めました。その日は多くのロータリークラブが一緒に集まり、約160人が郊外にあるゴルフクラブのパーティに参加しに来る日でした。その日は雪が降っていて、私は車から下りると、「王者が帰って来ましたと口をついて出ました。毎日、毎時、毎刻、私は師父の巧妙な按排を感じ、そして救い済度されることを待っている一人一人が、この世に降りてきた各世界の主だと感じました。数日が過ぎ、このような場所を訪れたことに私は少し緊張しましたが、とても落ち着くようになりました。師父はずっと私を加持していらっしゃいます。

 またとても感銘深いことがありました。私達はあるロータリークラブでプレゼンを終えた後、ある80歳過ぎの老人がすぐ私のところに来て、私に今チケットがあるか否かを聞きました。私はその老人を見て、すぐ承諾しました。帰ってすぐ、チケットの管理人に連絡し、その後チケットを送ることになりました。午後、私はもう一つのクラブに行く途中、この老人から電話が来て、いつ、どんな方法で彼の2枚チケットを手に入れるかを聞かれました。翌日夜、私はチケットを持って彼の工場に行きました。壁の上には彼が若い時、国王が工場の見学しに来た写真が掛けられていました。

 その時、既に一番良い席種のチケットがすでに売り切れていたため、私は仕方がなく、次に良い席種のチケットを持って、彼に座席がどこにあるかを教えました。彼は2枚の最も良い座席を探せるかと聞きました。彼は5倍、10倍の価格でこの2枚のチケットを買いますと言いました。私はもしあれば、必ずあげますと答えました。彼はまた、どんな価格でも払うと言いました。私は老人がこのような話を言い出したのを見て、その生命が千万年待ち望んでいたのはこの一刻の為だと思いました。私は再びチケット管理人に電話をかけてみましたが、結局彼の希望しているチケットはありませんでした。同修はとても誠意をもって、今の2枚チケットも最も良い、元々一番良い席種のものだと言いました。私達が彼のためにこんなによく考えているのを見て、この老人はとても感動しました。彼は私に、昨日プレゼンを聞き終わった後、一部の海外で生活している華人らが自国の伝統文化を広め、残すために頑張っていることを見て、心が動いたと言ってくれました。

 感銘を受けたことはまだまだたくさんあります。毎日、師父が衆生を大切にしておられ、すべての生命に慈悲でいらっしゃることを感じていました。私達が人を救う正念を持ちさえすれば、私達が自分の意念をきれいにすれば、すべてのすべてはみな簡単です。師父が私達におっしゃるには、すべての土台はすでに作り上げられ、ただ正念をもってやれば良いのです。

 三、直ちに内に向けて探し、間隔を取り除き、全体を協力する

 人を救う神聖な事をしていますが、しかし修煉者には修煉を向上させる要素がいつまでもあります。全ての過程で、それも何度か心性の関がありました。ある日の夜、劇場に資料を配りに行きました。そこは現地で最高級の劇場で、3つの出口があります。私達の地区の協調人は、毎回最大2人まで手配しようと考えていて、人が多くいると、劇場に与えるプレッシャーがあまり大きいと言いました。しかし私は毎回劇場にチラシを配るとき、1つの出口に資料を配る人がいないのを見て辛いと感じました。メールチームの中で何回か提起し、法を学ぶ時に何度も交流しても呼応する人はおらず、心の中にいくらかの不満がありました。その日はちょうど私は協調人のチームと一緒に配り、そして他の同修2人も来ました。協調人は地方から急いで来て、私達の3人を見ると、怒ったような顔に見えました。配り終わった後、私に怒ったような表情で、どうしてこんなに多くの人に来てもらったかを私に聞きました。彼がこんなに反応したのを見て、私は辛く感じました。彼女たちは私の手配で来たのではありませんが、それでも私は釈明する必要がなく、自分に「強辯(きょうべん)に遇えば、争論す勿(なか)れ」[4]と、注意しました。私は少し笑って答えませんでしたが、心の中に少し嫌な思いがありました。

 車で家に帰る途中、動悸がし、家に着いた後、ある同修から電話があり、「翌日少し多くの同修を手配して配るように」と私に相談がありました。今回、私は我慢できずに、「協調人はどうしても2人だけで十分足りる」と思っていて、私達は2人分を手配することもできないでしょう。相手と交流しなければならない」と答えました。私は怒りを持って「私達はすでに何度も交流したので、私はこれから言わない」と言いました。話をした直後、自分はどうしてこのように怒ったのでしょうか? どうしてこの事が発生したでしょうか、と考えました。多くの人に神韻を知って貰うためのようですが、どうしてこのように怒ったでしょうか?

 翌日、またショッピングセンターに行かなければならず、この落ち着かない心を持って行ってはいけないと思い、私は落ち着くようになり、自分の問題を見つめました。師父がおっしゃるには、「不愉快なことに遭うときはちょうど、自らを修めるときであり、心を修めるときです。」[2] また、師父はおっしゃるには、「トラブルに遭ったら、自分が間違ったかどうかに関わらず、このことに関して私に間違ったところがあるのか、本当に自分が間違ったのではないかと自らを考え、皆このように考え、最初の念は自らを考え、問題を考えているのです。このようにしない人は本当の大法修煉者ではありません。」[3]

 師父の法理に照らし合わせ、私は自分の問題を探し、どんな心も取り除くべきだと考え、最後に見つけるには、人に言われたら(指摘されたら)ダメな心、強烈な争いの心、他人より自分の悟りが良いという顕示心でした。見つかった後、心がすぐ楽になりました。私は必ずこれらの同修間の心を取り除き、みんなとよく協力し、足りないところを見えたら、黙々として補充してしっかりやっていくことにしました。また何度か心に衝撃を受けたとき、大量に法を学んで、直ちに自分を規正しました。

 今年、皆の協力の下で、私達のチケット販売率が初めて100パーセントを上回りました。満席の劇場を見て、私は何も失われていないと感じました。

 その段階の修煉過程を経て、内心はよく落ち着いて水のようです。師の法を正すことを助け、衆生を救い済度することができるのは、宇宙のすべての生命の中で最も誉れ高い事です。

 以上に適当でないところがあれば、慈悲に指摘してください。

 先生に感謝申し上げます。同修に感謝いたします!

 (完)

 

 (2013ヨーロッパ法輪大法修煉体験交流会)

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「もうさ迷わないで」
 [2] 李洪志師父の著作:『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』
 [3] 李洪志師父の著作:『大法弟子とは何か』
 [4] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「辯少なしに」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/8/1/277509.html)
 
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