新疆の問題から修煉の基準について考える
■ 印刷版
 

文/中国・新疆の大法弟子

 【明慧日本2014年4月5日】最近、私達の地区の修煉環境に幾つかの問題が存在することに気づき、同修のみなさんと交流したいと思います。正しくない場合、ご指摘を宜しくお願いします。

 多くの同修は三つのことの実行において、表面上非常に良くできているように見えますが、実質は長い間心を修めていません。皆が表面上の是と非に執着し、自分の問題を探さず、それゆえ、取り除いていない物質が他空間で大きな黒い塊になって、天目で見た場合は黒い金剛石になっています。それを取り除いて初めて、上を目指して修煉できます。しかし、執着心は外套のようなものを被り、自分を覆い隠し、その外套を開けて初めて中の汚い物質が見えます。しかもそれは非常に汚く、ゴミが黒くなったように、濃度も非常に高いです。これらの執着心は非常に奥深い所に隠れており、皆が日々の事に忙しく、中々根本からそれを認識できていません。それを根元から見つけ出し、取り除かなければなりません。

 修煉の中で問題に遭遇する際、同修の多くは習慣的に他人が間違っていると思い、例え自分にミスがあったと認めてもそれは口先だけに限ってしまい、真に自分の問題を探したりしていません。真に内に向けて探し、トラブルを起こした執着心を探し出して、初めて師父はその物質を取り除いてくださり、問題が解消されます。

 一部の同修は常人と付き合いたがらず、常人の心性が低いと思っているようですが、この時既に自分が間違っています。常人が正しくないと思うと同時に、自分が正しいと思っているでしょう? 実際、相手が間違っているのではなく、自分が間違っています。本当に自分に間違いがあると考え、真に自分の内に向けて探すとき、初めてその執着心が現れてきます。時にはその執着心を見つけた時、自分もびっくりしますが、自分もさほど常人からかけ離れていません。

 皆さん、心の中で引っかかって、不愉快に思う事を思い出して見てください。思い出せるなら、それはまだ取り除いていない執着心と関連しています。それが心の中で累積し、山のようになっています。そのことによって自分のどのような心が触れたか、更に深く掘り下げていって、その心が誘発された根本原因を見つけなければなりません。そして発正念し、その心を抑制し、取り除く意志を固めます。そうすれば師父はその物質を取り除いてくださります。その時、本当に心底から自分の間違いだと認め、トラブルが解消され、自分の向上を実感し、喜びを感じるでしょう。

 私が見るには、多くの同修は法をもって他人を評価すると同時に、自分の執着を隠し、苦労をなめることを修煉だと考えているようです。その黒い物質が取り除かれていないが故に、常人の中でのトラブルが絶えず、常人から受ける対応も悪く、最後には旧勢力の迫害を受けることになります。正しくは、トラブルに遭う度に内に向けて探し、見えた他人の問題を自分の鏡だと考えることです。

 多くの同修は関を乗り越えられず、それらの物質を取り除いていないが故に、修煉が非常に難航しています。私の理解としては、多くの苦労をなめ、三つのことを多く実行しても、それらの物質を取り除かず、向上が得られなければ、将来はどうなりますか。

 最近、私は本当の自分の家に着くにはあと屋根ほどの距離に来ているのが見えました。私が理解するには、それは時間です。しかし、振り向いてみると、三つのことを多くこなし、心を修めていなかった同修達は、自分の家にはまだまだほど遠いです。私が思うには、大法のことを実行し、心を修めなければ、常人が大法のことをやったに等しく、福徳があっても、威徳が得られないでしょう。

 以前、鼻水を垂らし、騒ぐ子供を見て汚いと思っていましたが、しかし最近は彼らが清いと思うようになりました。何故なら、彼らには後天的な観念がなく、複雑な考えがないからです。多くの人は複雑な考えや観念を持つのが良いことだと思っています。皆がなぜ、自分の考えを子供の清い状態に戻せないでしょう? この常人社会であまりにも長く生きてきて、観念を持つのが自然だと思うようになったでしょう?

 皆さん、大法に照らし合わせ、修煉して以来、自分がどれ位変わったかを考えてみてください。性格、気性、世界観、そして観念はどれ位変わったでしょう? これが非常に重要です。もし本質から変わってなければ自分を修めなかったことになります。皆さんは絶対変わりました。しかし根本から、肝心な方面においてどれ位変わったでしょう? 私が見るには、大法には基準があって、自分の世界にも基準があります。皆が自分の本来の天体に戻らなければならず、行けるところまで行けばいいという訳にはいかないようです。常人に比べ良くなった、あるいは他の修煉者より良くなっただけではいけません。本当に法に沿った認識をしているかどうか、世界観の転換をしたかどうか、そして常人社会の一切が見え透いているかどうかがとても重要です。

 最後に来て、私が非常に厳粛に思うのは、師父が延ばして下さった時間は全てが私たちのためです。執着心を取り除かなければ戻れません。自分が良くできていると思う同修達よ、どうか改めて法の基準や要求に照らし合わせ自分を見直してみて下さい。本当に法の要求を満たしたでしょうか。最近、法を学ぶとき、法の要求が非常に高いのを益々感じてきました。表面上何の要求も見えません。以前、師父がおっしゃる事は出来たらいいことですし、できなくても大きな問題ではないと認識していました。今は違います。師父のおっしゃる通りにならなければなりません!! ほかに出口がないように感じるようになりました。

 今思うには、自分が良くできている、あるいは自分に問題がないと思えば思うほど、実質は問題の真っただ中にいるということです。その物質は様々な口実を使って自分を保護しています。それを必ずはっきりと認識し、取り除かなければなりません。

 以上は個人の理解に過ぎず、正しくない所があれば同修の指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/3/31/289354.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/4/3/17.html)
 
関連文章