文/海外の大法弟子
【明慧日本2014年3月7日】同修からよくこのような話を聞きます。私がこのような事を行ったら威徳を得ます。行わないと威徳が得られません。あるいは、私はどうすれば更なる威徳を得られるのか、どうすれば他の人よりもっとたくさんの威徳を得ることができるのかと考えています。
実は、よく考えてみると、これらの同修達が求めている「威徳」と、修煉者が言う「威徳」は根本的に違います。適切な言い方をすれば、それは「名利」です。大法弟子の中で名利と地位、人よりも優れていることを求めています。
私は普段「威徳」という文字を思い出すことはほとんどありません。どうすれば三つのことを上手く行えるか、どのように衆生を済度するか、私が救うべき人を救えているかどうかだけを考えています。ですから、同修が「威徳」という言葉を口癖のように話していると、耳障りに感じます。威徳が無いばかりか、かえって人の執着心であると思います。
この執着心のせいで、同修の間に大きな間隔が生じています。自分自身を修めようと努力するのでもなく、同修を善意で助けることもしません。お互いに「威徳」を争ったり、嫉妬したりして、同修は自分よりちゃんと修煉していないと思い込み、同修を軽蔑します。だんだんと変異した魔性的な心理状態になり、さらには衆生を済度することの妨げとなります。
師父は「功徳を成就すは心にあらず 天を正し地を正し衆生を正す」[1]と説かれました。私達はなぜこのことを考えないのですか? 正々堂々と衆生を救い、同修の心性が向上するため助けたり、同修達が衆生を済度することを助けるべきです。それもすべて師父の按排です。それは衆生を救い済度し、師が法を正すことを手伝うことではありませんか? 威徳を樹立する機会ではないでしょうか? 心の中で威徳を求めたり、人よりも抜きん出ようと思ったり、同修に嫉妬したり、助けなかったり、ぶち壊したり、選り好みをしたり、威徳を大きく得るプロジェクトだと思い込んで、お互いに争って奪いあったりしています。すべて魔性に率いられて動かされ、魔が喜ぶことを行っていました。威徳はどこにありますか? 威徳に執着すること自体、執着心を捨てていません。全く威徳がありません、逆に大法を破壊することになります。
大陸の同修も同じような問題に言及しています。『すべての執着心を放下し修煉する(中国語)』の文章の中で、この同修はあることを悟りました。「内に探し続けてから、ある程度の執着心を捨てて、もうひとつの執着心を掘り出しました。あのプロジェクトはとても重要で、更なる威徳を得られると考え、また大法修煉の中で『人よりも抜きん出る』という考えがありました。知らないうちに、名利を争い求めることになりました。このような欲望に駆られて、自分のすべての執着心、汚い思想が余すところなく暴露されました。正直に言いますと、あれらの執着心は常人よりさらに汚く、さらに下品です」。
師父は「何も求めず自ずと得るのです! 大法弟子が今日行っている全ては歴史が皆さんに賦与した責任であり、正々堂々と行うべきことを行い、全てはその中にあります。圓満成就をしたいと思っている限り、圓満成就することができません。このことやあのことやまだ片付けていないから、どうやって去っていくのでしょうと言うならば、まだここから離れたくないということでしょう。この一言に多くの人心と執着が含まれています。」[2]と説かれました。
私は大法弟子が真剣に三つのことをやらなければならないと思います。きちんと心を修められなければ、大法弟子の中でいい加減に行ってしまい、知らないうちに破壊の働きをしてしまいます。
個人の認識であり、不足の部分はご指摘ください。
注:
[1] 李洪志師父の詩: 『洪吟二』「一念中」
[2] 李洪志師父の著作: 『二〇〇三年元宵節での説法』