自分にある正しくない念を見直そう
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 【明慧日本2014年3月30日】わが地区での神韻公演が終わりました。今年、私と同じオフィスに勤める二人の中国人の同僚も公演を見に来ました。公演が終わった翌朝、私は同僚が公演を見た後にどんな反応を見せるだろうという、少し不安な気持ちで出勤しました。

 実際、公演の途中、特に法輪功の真相に関する演目が演じられるとき、私は心配していました。彼女たちはこれを見てからどう思うだろう、と良くない考えがずっと頭の中で回っていました。これらの考えは良くないと気づき、抑えることに努めましたが、その由来の根源を見つけることができませんでした。

 ある演目の途中、私は突然こう思いました。もし私が一人の普通の観衆として、一つの公演を見に行くなら、公演を演目の通りに楽しむでしょう。即ち、平常心を持って公演を見るでしょう。

 大法弟子の誰もが神韻が衆生を救うプロジェクトだと知っていますが、その認識は感性に留まっているのか、あるいは真に理性的に認識し、師父の法を正す角度から理解できているのでしょうか。

 神韻公演に対し、私は正しくない念を持ち、まるで人に神韻を見せる事の背後に何かの目的を隠しているような感じで、そのような観念の下で、私はずっと常人の反応を気にしていました。そしてそのような観念がもしかして、法を正す師父の妨げ、そして衆生を救う妨げになっているかもしれません。

 突然、私は意識しました。神韻を見るときの状態は大法を学ぶときと似ていて、何の観念も持たないままで、初めてその内包が見えてきます。そして私達が大法を得た当初と同じく、何の観念も持たずして初めて法理が見えてきます。しかし、観念を持って大法を見れば法理が見えにくいはずです。今、私たちが神韻を宣伝し、そして神韻公演を主催する際に観念を持てば、私たち自身を阻むだけでなく、最も重要なのは直接的に衆生が救われる機縁に悪影響を与えかねないことです。

 実際、衆生の神韻を見る際の反応を全く心配する必要はありません。多くの観衆は美しいと言い、ある人は神からの暗示を感じると言い、ある人は感動の涙を流し、そして少数の人はまだその内容をはっきりと認識できないと言います。たとえその演目を好きにならないと言う人がいても構いません。なぜなら、「下士、道を聞けば、大いに之を笑う。笑わざれば、以って道と為すに足らず」(『轉法輪』)彼らがどう思うにしても、まず私たちは正しい念を持たなければなりません。

 また、他人に真相を伝える際、どう説明すればいいか分からない時があります。相手の考えが間違っていると知っていながらも、それを正す良い答えが見つかりません。一言でいえば、自分もその方面で観念を持っていて、相手の思惟方式から抜け出せず、相手の間違っている思惟方式に沿って物事を考えるので、当然正しい答えも見出せません。

 時には、一つの観念から突破できたとき、まるで気球がいきなり突き破られたような感じで、自分を包んできた一層の殻がなくなったようです。

 明慧ネットにあった交流文章「全ての幻想を放棄し 法を正す師の側(がわ)に立とう」の中の、「大法弟子全員が随時に着実に修めれば、その時こそ神佛が大いに現れるときでしょう」という文章が印象深かったです。

 同修の皆さん、私たちは自分の観念によって自分を妨げ、または師父の法を正す進展の妨げにならないよう、共に自分の持つ正しくない念を見直しましょう。

 不適切な部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/3/16/288786.html)
 
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