自分はやっと分かった
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年4月29日】「強辯(きょうべん)に遇えば、争論す勿(なか)れ」[1] 『洪吟三』「辯少なしに」を、自分は覚え切れないくらい何度も読んだり、暗記したことがありますが、今もう一度読んだときに、私は目が覚めたように「内に向けて、自分の原因を探すことは修煉である」ということに気が付きました。

 その時、過去の一つ一つの出来事が目に浮かびました。今まで、何かあった時に、自分に向けて探すのではなく、完全に物事の表面が正しいかどうかについて、人と争ったりしていました、今思うと本当に情けないと思いました。名前は修煉者ですが、修煉者とは言えません。自分を修めていないからです。いろいろ考えるうちに、私は分かるようになりました。師父は私たちに「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」[2]と教えてくださいましたが、私達はどう修煉すればよいか、わからないでいました。しかし、師父ははっきり私達に「内に向けて原因を探すことは修煉である」ということを説かれました。

 常人なら、人それぞれに運命があるという道理が分かれば、仕事よりまともな人間になることを最も重要視したほうが良いと分かるはずです。私達は修煉者なので、「絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」[3] しかも「修は己にありて、功は師であり」[3]なのです。法理が分かれば、何かあった時に、成功したり、失敗したりすることに執着せず、内に向けて、自分のよくない心を放下することが何より大事なことだと分かるでしょう。内に向けて、自分の原因を探すことが修煉なのです。自分を修め、心性を向上させることはどんなものよりも優先されます。ほかのことを考えるなら、それは有為です。しかし、有為は修煉ではありません。

 仕事中、私は妻に仕事の手順を教えたとき、妻は全然聞かず、言い訳ばかりしていました。しかも、私を責めた時もありました。しかし私は昔と違って、妻に説教することはなく、言い返しもしませんでした。私は「内に向けて、自分の原因を探すことは修煉である」という法理を思い出すと、すぐ内に向けて探し、自分を修めました。探してみると、それは「顕示心」のせいだと分かり、人に言われたくない心は「名」を求めていたからということがわかりました。私はこの「顕示心」と「名利心」を消しました、そして現在、私は妻と和気藹々の雰囲気の中で、一緒に仕事をしています。

 「内に向けて探す」ということは、修煉者がやるべきことだという法理が分かり、そのおかげで、自分の心が穏やかになりました。

 現段階の個人的な悟りであり、法に符合していないところがあれば、ご指摘ください。一緒に向上しましょう。

 注:
 [1] 李洪志師父の诗:『洪吟三』「 辯少なしに」
 [2] 李洪志師父の著作:『各地の説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/4/18/290178.html)
 
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